あとがき
 『中国文明の歴史』というのだから、ここでまず、「中国文明」についての私の考えを説明しておこう。私の定義では、「中国文明」は、紀元前二二一年の秦の始皇帝の中国統一にはじまり、一八九五年の日清戦争における日本の勝利、清国の敗北までを指す。それ以前の先秦時代には、もちろんまだ中国は成立していないし、それ以後の現代には、中国の伝統の文明は断絶し、それに代わって日本版の西洋現代文明の時代になった。それが現在でも続いている。
 中国文明以前の時代は、蛮・夷・戎・狄の時代である。それが西戎出身の秦によって統一されたわけだが、その結果、漢字と都市と皇帝が出現して、それから二千年あまりもの長いあいだ、中国式の文明が中国の主流になった。
 それでもいくつかの時代が区別される。第一の中国の時代は、紀元前二二一年の秦による統一から、五八九年に隋の文帝が陳を滅ぼして天下を統一するまでの、約八百年の時代である。ここで漢族の天下が、北族の天下へと変わってゆく、その変わり目の契機が一八四年の黄巾の乱である。この乱を境にして、前期の漢族は一気に激減して、それに代わって後期の北族が中国に入居し、やがて天下は北族の天下となった。
 第二の中国の時代は、五八九年の隋の統一から、一二七六年に元軍が南宋帝国の都の杭州に入城して、南宋の最後の皇帝の瀛国公がバヤンに降伏するまでの、約七百年である。この時代は、北族系の隋・唐・五代・宋の帝室が中国に君臨したが、そのうち北宋では「中華思想」を主張する議論が勢力を占め、当時のいわゆる「漢族」が実は「北族」である事実が不明瞭になった。しかしほんとうは、トルコ帝国・ウイグル帝国・キタイ族の遼帝国・ジュシェン族の金帝国・モンゴル族の元帝国という新北族が勢力を得てきて、そのうち九三六年、遼の太宗が後唐の内紛に干渉して、後晋から燕雲十六州を得たときに、前期の旧北族が負け、後期の新北族が勝ったのである。
 第三の中国の時代は、一二七六年のモンゴル族の元による統一から、一八九五年に満洲族の清が日本に敗れるまでの、約六百年である。この時代は、モンゴル帝国によって、東アジア・北アジア・中央アジア・南アジア・西アジア・東ヨーロッパの政治・経済が統一され、それがずっと現代まで続くのである。いいかえれば、ほんとうの意味の世界史がはじまった時代であるといってよい。そのうち一三六八年に生まれた宗教秘密結社系の明は、一見これに逆行する現象のように見える。しかし元は依然としてモンゴル高原に生存しており、またモンゴル帝国から分かれた諸国はユーラシア大陸に割拠していて、明はその一例であるに過ぎない。
 ほんとうの第三の中国の前期と後期を分けるのは、一六四四年に明が滅亡し、満洲族の清が北京に入って中国に君臨した事件である。清は満洲・モンゴル・漢族・チベット・トルコ系イスラム教徒を政治的に統合する一方、各人種の経済を厳密に分断して、ほとんど元の統一を再現した。
 一八九四〜一八九五年の日清戦争は、二一一六年の皇帝制度と中国文明の終わりを告げた事件であった。一八五四年に日米和親条約を結んでから、一八六八年に明治維新を経験した日本が、それから三十年も経たないうちに、かつての大国の清を破ったのである。清は衝撃を受けて日本型の現代化を決意し、多くの留学生を日本に送って西洋の新文化を学んだ。それ以来、中国は依然として日本を模倣し続けている。この時期の中国は、もはや独自の文明を持たない。「中国文明」の時代は、十九世紀で終わったのである。
この『中国文明の歴史』は、一九八三年に発表した「東アジア大陸における民族」の完全版である。もともと『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(橋本萬太郎編、山川出版社)の一章として発表されたもので、行き届かない点が多かった。それにもかかわらず案外好評で、なんども重版されている。このたび「講談社現代新書」の発刊四十周年にあたり、「東アジア大陸における民族」の増補版の刊行を求められた。これに応えてできたのが、『中国文明の歴史』である。
 終わりに当たって、この『中国文明の歴史』の執筆を慫慂された講談社の岡本浩睦氏、地図・図版の製作を担当された小山光氏、並びに本書の校正に努力した妻・宮脇淳子に感謝するとともに、本書が広く各方面の参考にされることを望むものである。
  二○○四年十一月     岡田英弘