しゃがあ Vol.39 2004 2-3頁より転載

「この人に聴く  モンゴルの17世紀の歴史と宮脇淳子先生」

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このコーナーではその道の専門家の方々にご登場頂き、様々なお話をお伺いします。今回は、夫君と岡田宮脇研究室でモンゴル史研究を続けている、東京外国語大学非常勤講師・COEアドヴァイザーの宮脇淳子先生にお話をお伺いしました。モンゴルの歴史は、モンゴル語文献よりも、漢語文献の他多くの書物で綴られてきています。そのため、沢山の糸(意図)が絡まり合ってしまい、解きほぐすにはかなりのエネルギーと根気が必要となります。そんなモンゴル史に真っ向勝負を挑んだのが宮脇先生でした。元気一杯の先生のお話は、興味深いものばかりでした。なお、以下文中の専門的記述に関しては、是非、先生の著作をお読みください。とても、ここで簡潔に説明などできるようなものではないので。。。
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なぜモンゴル史を研究するようになったのですか?

 私の実家は和歌山県の浄土真宗のお寺で、先祖代々16代も住職をしてきた家だったの。私の祖父は出家する前は漢文の先生で、儒教をかなり勉強した人だったのだけど、男尊女卑が激しくて、女に考えを持たせてはいかんとか、平気で言うような人だったんです。私はそういうのに非常に反発を感じていましたね。いったい、今の日本の生活のどこまでが中国伝来の儒教や仏教で、どこが日本本来の文化なのだろうか?とか思うようになっていたんです。
 で、思ったのが、祖父並みの学歴をつけて女にも勉強ができることを示したら、他の親戚女性たちの代弁者になれるかも?ってね。勉強が出来れば、祖父も少しは女の言うことを聞くようになるかしらと思って、一生懸命にやったわ。そういった状況から抜け出すには、勉強するしかないと思っていたのよ。
 結構感受性が強い性格だったので、気持ちが落ち込むことも多くて、こういう不安定な状況を好転させるには、頭脳を使って自分の感情をコントロールさせることしかないかなと思ったの。で、最終的には大学にいくしかないって思ったの。では、大学で何をしたいのか?ってことになったのね。
 自分の育った環境では、中国のことが身近だったので興味をもったのだけれど、そのときにも、中国より北にある草原にいっそう興味を持ったんです。
 父は満鉄の試験をうけて奨学金をもらって大学でた人だったのよね。でも、卒業したときに終戦で、結局満州へは行かないままだったの。だからかもしれないけど、私が子供の頃に父が買ってくる本は中国の童話とかなのよね。それに実家の寺に遊びにいくと、並んでいる本は仏教説話の子供向けのものばかりなのね。だから自然、中国へのあこがれってあったのね。
 中学校頃に新聞とかを読んでると、京都大学の先生方が書いている記事に、「あこがれの満蒙」とかいうのがあったわ。みんな大陸からひきあげてきて、大陸へいけなくなって、ロマンチックに大陸を語るのね。で、日本の満蒙研究、シルクロード研究に権威のある京都大学を目指すことになったの。大学にいくならいいところでないと、祖父を見返してやれないでしょ?
 で、やっと大学に入ったあとで、専攻を選ぶときにはじめは文化人類学を考えたわ。東洋史の漢文読むより、現地に行く方がおもしろそうだったし。でも、当時はまだ文化人類学ってあまり盛んではなかったのね。先輩が言うのに、「文献のある歴史のあるところは、人類学研究は難しいみたい」ってことだったので、やれるところからって思って、東洋史を選んだの。
 でもね、入ってから、モンゴルやるっていったら、馬鹿にされたのよ。京都大学には萩原淳平先生、佐藤長先生がいたのだけど、先輩たちからは「モンゴル研究は文献が少なくて、非常に偉い先生の昔の論文しかない分野で、頭のいい人しか出来ないのに、君ほんとうに自分がそんなに頭がいいとおもってるの?」って言われたのね。でも、自分の自由に好きなことが出来る所にやっと来たのに、こんなのに邪魔されたくなかったのよ。そうしたら、佐藤長先生は「したいことしなさい」って言ってくださったのよ。先生は北京でチベット語を勉強された方で非常に理解のある方だったわ。

●モンゴル史研究をしてみると

 私にとってのモンゴル研究は、日本を知ろうということだったのよね。日本は湿潤な環境で、人が一杯集まって暮らしているでしょ。これって窮屈な感じがするのよねぇ。では、モンゴルみたいにあんな広い草原に住むと、人はどんな風になるんだろうって思ったのね。人は環境でどんな風に制約を受けるのかな、モンゴル人ならこんなときどんなだろうって思ったのよ。日本は東の海の先、モンゴルは万里の長城の北側だけど、どちらも同じように中国文明の影響を受けているでしょ。中国文明の取り入れ方の違いがわかれば、日本の中にあるどこまでが外来のもので、どこまでが自分たち本来のものか、どれをやめて、どれを残せばいいのかがわかるかもって思ったの。人間関係の将来への展望がほしかったの。それには同じではない環境の人たちのことを知るのがいいってことなのよ。
 それから、教科書の世界史をみると、草原の歴史については、年表はないし、地図は真っ白だし・・・これは、歴史が無かったのか?それとも研究してこなかったからなのか?どっちだろうって思ったの。もしここが他の地域のように埋まってくれば学問的な価値があるだろうってね。東洋史に入ったときにね、普通の学生はどこをやったら就職できるかとか考えるのね。でも、私は「誰もやっていないところを私が先にやったら一番よね」っておもったの。

●先生の研究とは?

 佐藤先生から17世紀のモンゴル史は誰もやっていないって教わって、やろうと思ったのね。でも、誰もやっていない理由はすぐにわかったわ。だって、読まなくちゃならない書物は多いし、読めるようにならないといけない言葉がたくさんあるんだもの。すぐに論文なんて書けないの。大変なのよ。でも、私が思ったのは、「男だったら家族を養わなければいけないけど、私、女だし関係ないわね。だから、食べていくことを考えるよりやりたいことをやろう」ってね。それに、みんながやっていることをやるのがいやだったのね。
 京大を卒業したあと阪大の大学院に進学したんだけど、行った先の指導教官には、別のテーマにしなさいってすごい誘われたわけ。モンゴルなんてやっても将来性ないから、転向しなさいって。でも、すでに4,5年もやってきたのに、いまさらって思ったわよ。それで山田信夫先生の紹介で岡田英弘先生の所に教えを乞いに来たの。そしたら最初に言われたのが、モンゴル語ができていないってことだったの。それまでは漢文とロシア語しかやっていないでしょ。モンゴル語なんて初級だけよ。17世紀のモンゴル史を研究するには山のように読まなきゃならないものがでてくるの。それで、夏に東京外国語大学AA研の公募共同研究員にしてもらって、岡田先生の所で2ヶ月間びっちり縦文字の年代記を勉強したの。一対一で聞きたいことをひたすらに聞き続けたわ。で、その質問に岡田先生はひとつひとつ真剣に答えてくれたの。朝の9時半ごろから夕方5時頃まで、ずっとね。毎日精神的にくたくたでね。ホテルに帰っても寝るだけよ。夜には知恵熱がでたわよ。夜中に起きて、胸がむわぁってするのよねぇ。それまで疑問点が山のようにあって、それへの回答をもらって、消化するのに大変だったわ。それまでは、誰も答えれてくれなかったこと、例えば、歴史とは何か?とかね。聞いても「10年早い」とかって言われてね。ごく基本的な質問には誰も答えてくれなかったの。それどころか怒られたりするのよ。でも、そういう疑問に岡田先生はぜんぶ答えてくれたの。それで、本格的に弟子入りしたの。
 幸いにして、卒論、修論で見つけたテーマは誰もやっていなくてね。ジェプツンダンバ・ホトクトの話だったんだけど、これは私だけが見つけたものだったの。これまでいろいろなことはあったけれども、私自身は研究テーマには恵まれていたと思うのよね。このテーマだけでも、多くの先生たちの興味を引いて、支持も頂いたわ。それでそのあと、ジュンガルというテーマでも、大きな問題点を見つけてしまったの。それまで東洋史でも偉い先生たちがジュンガル研究に関わってきていたんだけど、大抵やめてしまっていたのね。私はどうしてもやりたくて、いろいろな言語の書物を端から総ざらいしたのよ。そうしたら、モンゴル年代記『シラ・トージ』を読むことでおもしろいことがわかったの。モンゴル年代記っていうのは、マッチョな英雄の戦争の話が多いのだけど、結構お母さんについての話とかでてくるのよ。で、この年代記には他の歴史書にはなかった、大切な記述があったんです。つまりね、それまでの歴史学においては、ジュンガルに圧迫されて負けて逃げた人々の末裔が今のカルムィクのモンゴル人といわれていたのね。でも実は、このころジュンガル部は強くなくて、内乱の原因は、ジュンガル部ではなくてホシュート部の同母異父兄弟だったことがわかったの。『シラートージ』に「アハイハトンは夫の死後、連れ子を持って再婚して、5人の子供たちを生んだ。この5人は5匹のトラといわれて有名になった」という但し書きがあったのね。それで、これまで、ズラートキン(ロシアの学者)が書いて定説とされていたことが誤りだったことが明らかになったんです。アハイハトンの最初の結婚から生まれたチョークルが、同父の兄弟の遺産を同母異父兄弟に分けろと言われて怒って、まず相手を殺したのね。ところが、殺した相手が5匹のトラの長兄のホシュート部長だったので、報復に弟たちがやってきたわけ。で、チョークルは姻戚のトルグート部を頼って逃げたの。それで、トルグート部長が「同族と殺し合いをするよりは、新しい土地の支配者となった方がいい」と言ってヴォルガ河へ移動していったということが、これも別の史料に書かれているのよね。となると、カルムィクのモンゴル人は胸張っていいでしょ。それまではズラートキンが書いた、ロシアに都合のいいように書かれた一方的な歴史しかなかったのが、これでようやくきちんとした形になったの。日本人にはどうでもいいことかもしれないけれど、負け犬のような歴史を負わされるのと、そうでないのとでは、アイデンティティに関わる大きな問題よね。

●学問のあるべき姿とは

 ホントの学者の心構えは俗の世間とは無関係にあるべきなのよね。うけをねらうのではなく、普遍的に何が学問かを考えると、真実を人間の知識に付け加えるのが本当の学問なの。これは世間の流れとは無関係なのよね。
 真理探究するぞっていう姿勢が学問なのよ。これは形とは関係ないの。ルポルタージュみたいなものでも、これが真実だと認められれば、評価が高いわけよ。大学教授が書いたモノだろうと、そうでなかろうとね、一つの真実を人類の知恵に付け加えたのであれば、立派な学問研究だと私は思う。
 ただね、私たちの立場、学者としてモンゴルと向かい合ったときの立場はね、現在の国とか、自分たちの愛国心とは関係なく、本当のことを明らかにするのが目的なのね。だから、私は本当のことを書けばいいんだって思うの。50年経って誰かが読んで、「これは本当のことだ」ってわかってくれればいいのよ。そのために自分には誠実に、そして、本気で訪ねてきた学生には誠実に対したいと思っているの。
 今、博士論文を書いています。今更ながらだけど。ザヤ・パンディタ伝の日本語訳注を中心に、これまでの研究を整理して提出するつもりです。『モンゴルの歴史』には、研究を載せることは出来なかったから、歴史だけでなく、モンゴル人の宗教観や世界観などにまで迫れるようなモノにできればいいなと思っています。

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 ご自身がこれから残す書物が、研究者によって書かれたものであるのだということを、きちんと誇りを持って残すために、「今更」ながらも博士論文を書かれる先生は、真実を探求する者としてのあるべき姿を真摯に追い続けておられるように感じられた。まだまだ、モンゴル史は奥が深い。というよりも、まだ闇の中と言ってもいいくらいだろう。先生のご活躍はモンゴルを知りたい者たちに多くを教えてくださることだろう。
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