『最後の遊牧帝国』 あとがき

 近ごろ、学者仲間でない人と知り合う機会が増えた。自己紹介のあと、決まってこのように尋ねられる。
「どうしてモンゴルに興味を持ったのですか」「モンゴル史を研究していて楽しいことは何ですか」
 それで、私は、いろいろ考えた結果、次のように答えることにした。
「私の生家は16代続いた浄土真宗の寺で、祖父は長い間漢文の先生をした後、実家を継いで僧侶になった。それで、祖父の中では、儒教と仏教が渾然一体となっていたのではないかと思う。中国伝来のどちらの教えでも、女は男に劣る生物で、まともな考えなど持てないらしかった。私は大いに反発すると同時に、なぜこのような思想が生まれたのか、それは事実なのか知りたいと思った」
「女にも考えがあることを示すには、まず大学に行くのが近道だった。私は中学時代から、漠然と東洋史も漢文も好きだったけれども、中国の向こうにある果てしない草原の方がもっとロマンティックに思えた。土地にしばられず、つねに移動する遊牧民なら、同じように中国文明に影響されても、農耕社会の日本のように固定した秩序のなかで、窮屈な思いなどしないんじゃないかと考えた」
「小、中学校で差別はいけないとさんざん教えられたが、世の中は差別だらけだった。先輩たちの学生運動が、社会秩序を変革するのに有効だったようには思えなかった。私は、どうしてこのような社会になったのか、その歴史と理由を知る方が先じゃないかと思った。身近な日本を研究すると、早い時期に自分自身に直面し決断を迫られるような気がして、遠く離れたモンゴルを研究対象に選んだ」
 これがモンゴル史を志した当時の私の本当の気持ちだったかどうか、いまでは私自身にも定かではないが、真実の一部分ではあると思う。そして、いまモンゴル史を研究していて楽しいことは、知的好奇心を大いに満たしてくれることと、精神が時空を越えて自由になれることである。あんなに不思議だった差別の存在についても、それが生まれた理由がわかれば、少なくとも私自身のこととして腹は立たなくなる。20年に及ぶモンゴル史研究は、私を自分から解放するのに役立った。
 私が選んだ研究地域は、すべてが共産圏の中にあった。現地調査どころか、その地の人にとっては歴史研究すら自由でなかった。私にとって興味があったのは、もう存在しない過去の歴史だったから、文献さえ入手できれば、どこにいても研究は始められると思った。京都大学の卒論のテーマに17世紀のモンゴル史を選んだのは、世界中見回してみても、ほとんど誰も研究していない地域と時代だったからである。
「外蒙古」ハルハの清朝服属とジェブツンダンバ一世に関する研究で京大を卒業した後、縁あって阪大の大学院に進んだ。私を可愛がってくれた京大東洋史主任教授のチベット学者佐藤長先生の退官が目前で、大阪大学東洋史の主任教授山田信夫先生が私を誘ってくれたからである。
 阪大の東洋史は京大に比べて歴史が新しく、蔵書も少なかったが、その分自由な研究環境だった。阪大東洋史の先生たちは当時皆が東大出身だったので、私にとっては研究方法も新鮮だった。山田先生は、自分の後輩でモンゴル史の世界的権威である、東京外国語大学の岡田英弘教授に、私を紹介した。
 山田先生に推薦されて初めて国外に出た1978年の台北の国際会議で、主催者側の勘違いから、私は思いもかけず研究発表の機会を与えられた。一夜で作った原稿を岡田教授に英訳してもらい、これが縁となって岡田教授に弟子入りする。阪大大学院博士後期課程の2年間、私は東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の公募共同研究員として、夏期2ヶ月の滞在費を支給され、岡田教授から一対一でモンゴル年代記の講読を受けた。
 大学院を修了した後、研究を続けたい一心で東京に居を移した。このころ、チベット学では世界的権威の山口瑞鳳東大教授からも誘いを頂いて、17世紀の蔵外(大蔵経以外のチベット語史料)文献の講義を受けた。山口教授が東大を退官されるまでの3年間、私が参加したチベット文献講読は、東大の正規の授業なのに、外部からの受講生2人を含めて学生3人という贅沢なものだった。
 現在では私の夫でもある岡田英弘は、朝鮮史の研究で東大東洋史を卒業し、その後満洲語を学んで、26歳の時、満文老档研究会の仲間とともに、日本学士院賞を受賞した。研究生活を始めた途端に功なり名遂げてしまったわけである。世俗的名誉に興味をなくした岡田は、アメリカに留学して、亡命ロシア人のモンゴル学者ポッペ博士からモンゴル年代記を学び、次いで西ドイツのボン大学で、やはりモンゴル学の権威であるハイシッヒ教授にも師事した。一度はポッペ博士の後任としてワシントン大学で教鞭を取ったが、アメリカの東洋学が衰退しはじめた頃に帰国した。
 岡田の学問は、近著『世界史の誕生』(ちくまライブラリー 1992)で示されているように、全く独自である。日本の東洋史学界では孤立した存在だった。しかし、中国史に関する岡田の講義をはじめて聞いた時、東洋史を専攻して以来わだかまっていた私の疑問は氷解した。そのうえ、私の志したモンゴル史については、世界中見ても、岡田ほどふさわしい指導者はいなかった。学位の取得や就職へのコースからはずれようと、岡田について学問をする以外に、私に選択の余地はなかった。
 岡田の私への教育は、いま思うと完全に欧米式だった。欧米の大学に留学しなくても、日本でも同じような教育ができることを実践してみたかったのだそうだ。私は失うものは何もなかったので、運動選手とコーチのようだと思いながら、岡田の指導通りの研究を続けた。
 このころ、最初に選んだテーマの、17世紀のハルハ史と関係のあるオイラト史を研究するうち、本書でのべたジューンガル史の定説の誤りを発見してしまった。関連したできごとを一つずつ追跡しているうちに、いつのまにか、チベットからヴォルガ河畔にまで研究対象地域が広がり、専門が東洋史とも西洋史とも言えなくなってしまったのである。
 じつはモンゴル学は、日本の東洋史では、万里の長城以北の夷狄を扱う中国史の補助学であるが、欧米ではトルコ学と一緒にして、中央ユーラシア研究(トルコ語、モンゴル語、ツングース語をアルタイ語族と総称する説にのっとって、アルタイ学ともいう)と考えられている。その研究者たちが集まる常設国際アルタイ学会(Permanent International Altaistic Conference)が、1957年にハイシッヒ教授が創設して以来、年一回世界各地で開催されてきた。岡田とくらすようになったこの10年間、ほとんど毎年2人でこの学会に参加して、研究発表をおこなってきた。
 毎年の国際アルタイ学会は東西の学者が交流する場で、西欧やアメリカだけでなく、ソ連や東欧でも開催された。私は、この学会でジューンガル史についてのロシア人研究者の歪曲を指摘し続けた。東欧の学者は喜んだし、ソ連が崩壊したあとでは、ロシア人にも好かれていたらしいことがわかった。何より、1992年に初めて訪問したモンゴル国の首都ウランバートルで、これらの研究発表のおかげで、私はすでに有名だった。
 序章に書いたように、1991年12月のソ連の崩壊と、その後の民主化の動きのなかで、歴史の見直しが始まっている。中央ユーラシア草原でくらすモンゴル帝国の後裔の人びとも、ようやく自分たち独自の歴史を研究できるようになった。しかし、マルクス主義の発展段階説や遊牧封建制史観をのりこえるのは、簡単ではない。
 国家や民族のアイデンティティを新たに創り出すために、モンゴルやヴォルガ河畔のカルムィクで、私の研究が注目されているらしいのは有り難いけれども、歴史研究はその時どきの政治から自由でなくてはならない。私は、本当のことを知るためと、自分が生きるいまの環境を離れて見るために、モンゴル史研究を始めた。これからも、わがままに史実を追求していきたいと考えている。
 このような私を主任研究員として迎えてくれ、いつも「社会の一隅を照らす」ことを考え続けた、岡田英弘の畏友、国際関係基礎研究所の故新井俊三所長(1994年10月18日逝去)に、私の心からの感謝の気持ちを伝えられたらと思う。
 また、私の研究を各所に紹介してくれた結果、本書の出版につながった、異業種政策集団「富さんを囲む茶論」(代表幹事 富安正)のメンバーにも、毎月の励ましに感謝申し上げたい。
 最後に、寺の長男に生まれたのに理系を選び、満鉄から奨学金をもらって学校を終えた年に終戦で、ついに大陸雄飛がかなわなかった父、宮脇俊と、私を自分の母方の祖母の生まれ変わりと信じて、三代の女の夢を託して私を応援し続けた母、宮脇久子に、これまでの私への信頼と支援を感謝することを許していただきたい。
 岡田英弘の学問と教育がなかったら、いまの私はなく、本書も誕生しなかった。これからも、岡田史学の継承と発展に、少しでも貢献できるよう研鑽を積みたいと念じている。
 本書を担当して下さった選書メチエの池ノ上清さんには、温かい励ましと熱心な御指摘を頂いた。御礼を申し上げる。
            1994年12月 
                        宮脇淳子