『台湾の命運』まえがき

 私が台湾と関係を持ったのは、もともと満洲史の研究を通じてであった。
 一九五三年、東京大学の東洋史学科を卒業するとすぐ、私は当時、東洋史研究室で『満文老档』を読んでいたグループに加わった。『満文老档』というのは、十七世紀の清朝初期の歴史の記録で、漢文ではなく、縦書きのモンゴル文字のアルファベットを使って、トゥングース系の満洲語で書いてある。会読の場所は後に東京駒込の東洋文庫に移り、原文のローマ字転写に日本語訳文をつけたものの刊行を始めた。この仕事は一九五七年、日本学士院賞を受けた。
 そのうちに私は、満洲学の研究を徹底的に推し進めるためには、満洲文化の基礎であるモンゴル文化を知る必要があることに思い至った。一九五九年、私はフルブライト奨学金を受けてアメリカに渡り、シアトルのワシントン大学に留学して、世界一のモンゴル学者として高名なニコラス・ポッペ先生についてモンゴル語を学んだ。ワシントン大学には、台湾で中国語を学んだアメリカ人学生や、台湾からの留学生が多かったが、その一人の包国義君とは特に親しくなった。彼は満洲帝国の興安省の出身のモンゴル人で、モンゴル名をウネンセチェンといい、チンギス・ハーンの弟の子孫で、北京大学に学んで純粋な北京語を話す。父親は包悦卿(モンゴル名サインバヤル)といって、徳王の自治政府の要人だった。包君自身は、共産党から逃れて移住した台湾では陳誠副総統の派閥に属しており、中国青年反共救国団主任の蒋経国を恐れていた。包君の夫人は新京の看護婦学校の出身で、日本語が得意であり、そのおかげで包家は台湾人に受けがよいという話だった。台湾人が中国人を「ブタ」と呼んで憎んでいるということは、包君からはじめて聞き、その他、台湾の政治の内幕について多くを教えられた。私は一九六一年にアメリカ留学を終えて日本に帰った。
 『満文老档』の刊行費は、アメリカのハーヴァード大学の中にあるハーヴァード・イェンチン・インスティテュート(哈佛燕京學社)という財団から援助を受けた。一九六二年、私は研究仲間とともに、同じ財団から旅費をもらって、はじめて台湾を訪れた。これは『満文老档』の原史料となった満洲語文書が台湾にあるのではないかと見当をつけて、その調査のためだった。満洲語は清朝の第一公用語だったので、もっとも重要な公文書は、漢文ではなく、満洲語で書かれた。一九一二年に清朝が倒れたとき、北京の紫禁城には膨大な量の満洲語の古文書が所蔵されていた。中華民国がこれを引き継いで、紫禁城を故宮博物院に改め、整理をはじめた。ところが一九三一年に満洲事変が起こって、日本軍が長城線に迫ったので、中華民国政府は故宮の宝物を南京に移した。さらに一九三七年に支那事変がはじまったので、故宮の宝物は戦火を避けて奥地に移され、一九四五年に戦争が終わってから、また南京に帰って来た。ところが一九四九年、国共内戦が激しくなって、共産軍が南京に迫ったので、故宮の宝物は軍艦二隻で台湾に移された。その中に『満文老档』の原本もあるのではないかと思ったのである。私たちが台湾を訪問した一九六二年の当時には、故宮博物院は台中の近くの霧峯に仮住まいしていた。私たちは霧峯に行って見たが、『満文老档』の原本があるかどうか、要領を得なかった。(実は台湾側では原本があることをすでに突き止めていたので、のちに台北に移った故宮博物院から『旧満洲档』として一九六九年、写真版で刊行された。)
 そのころの台湾で日本人を見かけることは非常に珍しかったので、受け入れ側の中央研究院の外省人(中国人)たちは私たちを鄭重に扱ってくれたし、一般の本省人(台湾人)たちからは大歓迎を受けた。また台湾には、包君同様に、国民党に従って避難してきた徳王派のモンゴル人が多く居て、この人たちが日本語と満洲語を流暢に話すことを知った。これから私は、清朝時代の史料の調査のために、頻繁に台湾を訪れるようになる。
 私が台湾で特に親しくなった陳捷先君は外省人である。江蘇省の揚州の出身で、夫人の友蘭さんは満洲人であり、美しい北京語を話す。私たちの仲間は一九六六年、第一回東亜アルタイ学会を東京と京都で開いた。費用を提供してくれたのは、またも同じアメリカの財団だった。陳君はそれまでハーヴァード大学に留学していたが、台湾への帰りに日本に立ち寄り、私たちの学会に出席した。長身でハンサムな陳君は英語に堪能で、私とは英語を通じて無二の親友となった。彼は蒋経国系で、満洲語を学んで清朝史を専攻し、国立台湾大学(もとの台北帝国大学)の歴史系の教授になった。
 もう一人の親友は、本省人の鄭欽仁君、やはり国立台湾大学の歴史系の教授である。彼は台湾の新竹の旧家の生まれで、ハンサムで上品、東京大学の大学院に留学して北魏史で博士号を取り、日本語を流暢に話す。鄭君は国民党の統治に反感を持ち、台湾独立を念願としていた。
 陳捷先君は組織の才能があり、東亜アルタイ学会を何度も台北で主催した。私はそうした機会に得た経験を通じて、中国人の物の見方、考え方になじんだ。そうこうするうちに一九七一年、ニクソン・ショックが起こって中華民国が国連の議席を失った。私は文藝春秋の依頼で台湾に取材に行った。このとき陳君の広い人脈のおかげで、国民党の要人たち多数にインタヴューができた。なかでも総統府(もとの台湾総督府)の中で黄杰国防部長に会えたのは大成功だった。このときの、成果は、「嵐のなかの中華民国」と題して雑誌『諸君!』に掲載された。このとき『朝日新聞』は、『諸君!』の広告から、かってに「中華民国」の四字を削って、「嵐のなかの蒋介石」と改めた。「中華民国」という国家の存在を認めない、という言い分で、文藝春秋と大もめになった。それはともかく、このルポルタージュをいま読み返すと、私がその後開発した中国文化論の要点は、すべてこのなかに含まれている。
 一九七九年の十二月末に、陳捷先君主催の第五回東亜アルタイ学会が台北で開かれた。これは『美麗島』高雄事件で国民党の警察と反国民党の台湾人が流血の衝突を起こした直後だった。学会に出席した私は、夜、鄭欽仁君の自宅に招かれ、逮捕者の名簿を日本在住の同志たちに持ち帰るよう頼まれた。台北空港での出国客の荷物の検査は厳重を極めたが、私は名簿を靴の底に隠して無事すり抜けた。この時に鄭君から得た情報を、私は翌一九八○年二月、新井俊三氏の主催する朝食会で報告した。
 新井俊三氏は、東京商科大学(のちの一橋大学)の出身で、三菱信託銀行を常務取締役でやめて経営コンサルタントを開業した人だった。一九七六年、自由民主党の幹事長だった大平正芳氏は、新井氏の一橋の先輩だったが、新井氏を政策顧問に委嘱した。大平氏の依頼で、新井氏は新井経済研究所というシンクタンクを設立し、日本最初の朝食勉強会を主宰していた。私の高雄事件の報告を聞いた新井氏は、その内容の重大なのに驚いて、総理大臣だった大平氏に届けた。大平総理も驚いて、外務省にも一本を届けさせた。私の報告書は新井氏から北京筋にも回り、私の名前は大陸でも注目されるようになった。
 一九八一年、陳捷先君が第六回東亜アルタイ学会を台北で組織し、私も例によって出席した。この回のスポンサーは台北市政府で、市庁舎で歓迎宴があり、李登輝台北市長が挨拶した。これが私が李登輝さんの姿を見た最初である。一九八四年四月になって、国立政治大学(国民党の党学校)が主催する国際中国辺疆学術会議が台北で開かれた。閉会後、出席者一同は中南部の遊覧旅行に連れて行かれた。その途中、台中の郊外の中興新村にある台湾省政府を訪問して、李登輝主席に歓迎された。この時すでに、李登輝さんは蒋経国総統から副総統に指名されていた。李登輝さんは私たちに向かって英語で台湾の経済建設の方策について熱弁を振るい、そのあとで一同を宴会でもてなしてくれた。私は李登輝さんと同じテーブルで食事をして、彼のなまりのない美しい日本語を聞いた。私の妻(宮脇淳子)は京都大学の卒業なので、李登輝さんの後輩に当たるが、李登輝さんは彼女に「日本から女の人が来てくれるのは嬉しい」と言い、親切にしてくれた。
 三度目に李登輝さんに会ったのは、一九九五年四月のことである。これは、清朝が下関講和条約で台湾を日本に割譲した一八九五年四月のちょうど百周年で、本省人資本の台北の大新聞『自由時報』が主催して、「馬関条約一百年―台湾の命運の回顧と展望」(中国人は下関を馬関という)と題する国際学術シンポジウムが、台北の国際会議センターで開かれた。実際に組織したのは、野党の民主進歩党の有力な幹部になっていた鄭欽仁君で、私も鄭君からの国際電話で出席を約束した。会議では私も論文を発表し、その訳文の全文は『自由時報』の紙面に掲載された。会議が終わって出席者一同は総統府に招かれ、李登輝総統の挨拶を聞き、それから一問一答が行われた。最後に一人一人が総統と並んで記念写真を撮ってもらった。
 以上が私と台湾の関係の歴史である。それと並行して、そのつど私は新井氏の朝食会や昼食会で台湾情勢について講演を行い、その筆記は印刷して関係方面に配布された。新井氏は一九九四年十月に八十歳で逝去されたが、そのシンクタンクとの関係は続いている。
 今年一九九六年三月の総統直接選挙で李登輝さんが再選され、これを妨害しようとした大陸の軍事的威嚇に対抗して、アメリカが台湾防衛の決意を明らかにした。こうして中台の力関係は逆転して、台湾が優位に立ったのを機会に、弓立社の宮下和夫社長の熱心な勧めによって、私がこれまで発表してきた論文や講演筆記を一冊にまとめて刊行することになった。この『台湾の命運―最も親日的な隣国』の第一部には、最新の台湾情勢に関する講演三篇を収め、日付の新しいものほど前に置いた。第二部には、第二次大戦後の変化を映す論文・講演三篇を発表順に排列する。第三部は、古くからの台湾の歴史の概説である。これは、読者の理解の便に配慮した宮下社長の考えによる。
 私と台湾との縁は、すでに三十四年の長きにわたる。台湾が中国に併合される危険が去って、洋々たる前途が開けたこの機会に、私の経験を知っていただくことは、私の無上の喜びである。台湾を理解し、日本と台湾の結びつきを強めることは、日本の安全と世界の平和にとって必要不可缺であるから。
  一九九六年十月
岡 田 英 弘