『日本史の誕生』序章

日本の歴史をどう見るか

  日本の歴史は、当たり前のことだが、世界史の一部分として書かなければならない。ところがこの当たり前のことが、なかなかうまくゆかない。うまくゆかない原因をつきつめて言えば、第一に、これまでの日本史が日本だけの歴史であって、日本列島の外の世界とは何の関連もなしにできあがっていること、第二に、本物の世界史と呼べるようなものがまだなくて、中国史と西ヨーロッパ史という、もともと水と油の別物を、無理やりつき混ぜただけのものであることである。
 歴史は、人間が世界を見る見方を、言葉で表現したものである。世界の見方にもいろいろあるが、歴史は、人間の感覚に現在映る世界だけが世界ではなくて、もう感覚に映らなくなった過去の世界も世界であるとする見方なのである。そういうわけで、歴史は、何よりもまず、過去の世界はこうだったのであり、その結果、現在の世界はこうなっているのだという、書く人の主張の表現なのである。歴史は決して、単なる事実の記録ではなくて、何かの立場を正当化するために書くものである。
 そういうわけで、書かれた歴史にはそれぞれの立場があり、主張があるのだが、どこの文明でも、最初に書かれた歴史には、その文明の性格を決定してしまい、自分たちはどういう人々だというイメージを固定してしまう力がある。日本で最初に書かれた歴史は『日本書紀』だが、これは六六○年代に始まった日本建国の事業の一環として、天武天皇によって着手され、七二○年に完成したものである。『日本書紀』は、日本の建国を正当化するために書かれたものだから、その内容は、日本国という統一国家には古い伝統があり、紀元前七世紀という早い時代に、中国とも韓半島とも関係なしに、全く独自に日本列島を領土として成立し、それ以来、常に万世一系の日本天皇によって統治されてきたのだという立場をとっている。この『日本書紀』の主張は、中国や韓半島の文献とかみ合わないので、事実に反していると考えることでは、現代の歴史家は一致しているのだが、それでも『日本書紀』の枠組みの影響を逃れることは難しい。何しろ七世紀以前の日本列島の政治史の材料は、土着のものとしては『日本書紀』しかない。『古事記』というものはあるが、これは九世紀の平安朝初期の偽作であり、その枠組みは『日本書紀』そのままなので、『日本書紀』と『古事記』をつき合わせても、『日本書紀』の主張の壁を乗り越えるには役立たない。やはり『日本書紀』が反映している、七世紀の建国当時の政治情勢を考慮に入れながら、その一つ一つの記事の価値を判断して利用するしか方法はない。これが史料批判というもので、歴史学の正統的な手法であるが、日本史しか知らない歴史家は、どうしても『日本書紀』の枠組みに引きずられがちである。『日本書紀』の枠組みから自由になるには、中国史と韓半島史の十分な知識が必要である。
 ところがここにも困難がある。中国でも韓半島でも、土着の歴史書が主張することを、そのまま事実として受け取るのは危険である。それらの歴史書は、歴史である以上、中国なり韓半島なりが、それぞれ独自の起源を持つ、統一国家たるべき宿命を持った文明であることを主張するために書いたものであるからである。そういう主張を持った歴史書を材料として研究する中国史なり韓半島史なりの専門家の考え方は、どうしてもそういう歴史書の枠組みに支配されやすい。こうして「定説」といわれるものが生まれ、「周知の事実」として歴史教科書や歴史辞典に記載されることになるが、そうした定説はほとんどが十分な検証もなしに流通しているもので、定説ならばまず疑ってかかるほうが安全である。
 中国の本当の起源は、紀元前二二一年に秦の始皇帝が中原の都市国家群を征服して統一した時であり、中国の歴史は二千二百年余りの長さしかない。それ以前の中原には、それぞれ生活形態の違う蛮・夷・戎・狄の人々が入り交じって住んでいたのであって、後の中国人はこれらの異種族が混血した雑種である。しかし紀元前一○○年頃に司馬遷が書いた中国最初の歴史である『史記』は、中国は黄帝以来、中国人の天下であり、常に正統の帝王によって統治されてきたという立場をとっている。それから後に中国で書かれた歴史は、すべてこの『史記』の枠組みを忠実に踏襲して書かれたので、その結果、中国は五千年の歴史を持つ不変の高度な文明であり、ときおり北方の野蛮人に征服されることがあっても、たちまち征服者を同化してしまい、征服の影響は後に残らなかったという、中華思想の歴史観が固まってしまった。中国人だけでなく、日本人の中国史家も、『史記』型の歴史観に基づいて書かれた史料しか読まないものだから、中国史料の偏向に気がつかず、中華思想の枠組みに支配されていることさえ自覚していないか、たとえ自覚しても、中国史料の偏向をどう修正したらいいのか、見当がつかない。こういう状態では、中国史の立場から日本史に対して有効な寄与はできない。
 韓半島史は、日本史とはまた違う。アジア大陸から離れた海の中の日本列島と違って、韓半島は満洲および中国と地続きなので、『日本書紀』のような独善的・排外的な歴史は書けなかった。韓半島の政治史は、亡命中国人が平壌に作った朝鮮王国に始まり、前漢の武帝がこれを征服して四郡を置いた紀元前一○八年から、中国軍が撤退して楽浪郡・帯方郡が滅亡する三一三年までは、韓半島は中国の支配下の植民地であった。この中国史を否認することは誰にもできなかった。現存する最古の韓半島の歴史は、高麗王朝の金富軾が一一四五年に書いた『三国史記』である。『三国史記』の著作の目的は、金富軾の祖先である新羅王家が韓半島を統一し、それを高麗王朝に引き継いだ功績を顕彰することであった。『三国史記』では、新羅の建国は紀元前五七年のことになっている。これは、前漢の昭帝が紀元前八二年に韓半島南部の真番郡を廃止した後の、最初の甲子の年である。このことが示すように、韓半島の初期の歴史は、中国史の一部分という性格を持っている。
 韓半島史が中国史の枠組みを離れて、独自の筋道をたどるようになるのは、新羅が韓半島南部を統一した六六○年代から後のことである。新羅の韓半島統一は、唐が六六○年に百済を滅ぼし、六六八年に高句麗を滅ぼした結果であった。韓国(朝鮮)文明と呼べるようなものは、この七世紀後半から発達を始めたのであって、それ以前の韓半島にあった文明は、独自の文明というよりは、中国文明の地方版というべきものであった。この点では、建国以前の日本列島の文明も同様である。日本文明と韓国文明は、中国文明の基礎の上に、六六○年代に同時に発達を始めたものなのだから、韓国文明が日本文明の源流であるという主張は、とんでもない時代錯誤である。
 日本史という枠組みは、日本という国家が成立した後にしか当てはまらない。日本建国以前には、国境がまだなかったのだから、当然、国内と国外の区別もなかった。だから七世紀の日本建国以前の歴史は、日本史ではなく、日本古代史でもなく、日本列島・韓半島・満洲・中国にまたがる、広い意味での中国史なのである。この意味での中国史が、すなわち日本建国以前の世界史である。
 中国史は、紀元前三世紀の秦の始皇帝の中原統一とともに始まったが、最初の五百年間の主役は秦・漢の中国人であった。それが四世紀始めの五胡十六国の乱を境に、中国人の勢いは衰えて、北アジアの遊牧民出身の人々が代わって中国史の主役となり、それとともに満洲・韓半島・日本列島でも、土着の人々が主導権を握るようになった。この状態が三百年続いた後、遊牧民出身の隋・唐が中国を再統一し、かつての秦・漢帝国の再現を目指して、満洲・韓半島に介入した。七世紀に新羅と日本がそれぞれ統一王国になるのは、唐の介入に対する反応であり、中国に対する自衛の手段であった。このように、中国の中身は入れ替わっても、中国の存在が韓半島・日本列島の人々にとって脅威であることは変わらなかったのである。
 ここで一つ、注意しておきたいことがある。それは、考古学は歴史学の代用品にならないということである。歴史は世界観を言葉で表現したものだから、あくまでも書かれた言葉の材料、つまり文献の基礎の上に組み立てるものである。考古学が取り扱うのは、物質文化の表現である遺物であって、言葉ではない。土器の様式の変遷をどれほど精密に跡づけたとしても、また銅鐸や銅鏡や銅剣や鉄剣がどれほど多量に出土しても、それに文字が書いてなければ、書いてあっても政治に直接関する事柄でなければ、歴史の材料としては役に立たない。歴史に筋道を与えるのは政治だからであり、物質文化は誰にでも容易に借用できるものだからである。つまり、日本列島の土器文化が、縄文土器から弥生式土器に変わったからといって、それを使う人間が入れ替わったことにはならないのである。また出土する人骨の計測値がある地層を境にして変わったからといって、古い人間が死滅して新しい人間が入り込んで来たことにはならない。人間はもともと雑種であり、体質は連続的に変化できるものだからである。
 同じように、言語学も、民族学も、歴史学の代用品にはならない。比較言語学がいかに成果を挙げても、いわゆる言語の系統とは、言語と言語の間の似寄り方、かけ離れ方を表現したものに過ぎず、それを話す人々の血統関係の表現ではない。言語は遺伝するものではなく、生まれ落ちてから接触する周囲の人々から習得するもので、しかも一人が話す言語は一種類とは限らず、何種類もの言語を相手によって使い分ける人も珍しくはない。だから言語の系統樹を、人間の家系図のように誤解して、歴史の記録と同じ価値があるように思ってはいけない。
 この点、民族学も同じである。民族の文化の類型とは、現代の民族学者が観察した、別の社会に属する人々の行動を解釈したものに過ぎず、観察する民族学者ごとに解釈は異なるし、同じ社会でも一世代前には全く違っていたかも知れない。だから文化の類型も、歴史の史料としては役に立たない。
 こうした考古学・言語学・民族学の成果は、歴史を書く場合の参考にはなるが、決して参考資料以上のものにはならない。それらを主な材料にして歴史を書くことは不可能である。
 繰り返して言うが、歴史は言葉による世界観の表現であり、単なる事実の記録ではない。この点では、歴史は神話にも、イデオロギーにも似ているが、神話ともイデオロギーとも決定的に違うところがある。神話は時間を超越した、現在の世界の説明であり、過去の世界が実際にどうであったかを問題にしない。イデオロギーは、未来の世界のあるべき姿を描き出し、現在の世界はそれに向かって動いていると主張するものである。イデオロギーには、『聖書』にせよ、『コーラン』にせよ、マルクスの著作にせよ、神によって啓示された聖典があり、それに書かれた文句は一字一句の変更も許されないので、イデオロギーが現実に合わなくなっても修正がきかない。現実に合わなくなると、イデオロギーは正しくて現実のほうが間違っているという、原理主義に陥りやすい弱点もある。その点、歴史は、文献史料に基づいて構成されるものなので、時間が経てば経つほど、文献が蓄積すればするほど、新たな見直しが必要になり、論理にかなった修正を加えることができるので、よりよく現実を反映すると言える。
 日本建国以前の筋の通った歴史を書こうと思えば、主な材料としては、やはり『史記』に始まる中国の正史と、『日本書紀』しかない。ほかの材料はすべて補助の材料である。しかしその場合、こうした史料の片言隻句をとらえて奔放な空想を馳せるのでは、筋道の通った歴史にはならない。どんな史料にも、それから引き出せる情報の限度というものがある。また後世から見て重要な事柄でも、当時の人の注意にのぼらず、記録に残らなかった事柄も多いはずである。歴史というものには、こうした限界がある。それを承知の上で、利用できる史料を利用して、現在の世界の奥にかつてあった世界を描き出すのが、歴史というものである。
 日本列島に正当な位置を与えた世界史を書こうと思えば、日本の国史、韓半島の国史、中国の国史という枠組みを乗り越えて、ユーラシア大陸と日本列島に共通な視点から書くしか方法はない。そうした視点は、当然のことながら、現代のいずれの国家の利害にも、国民感情にもおもねったものであってはならない。現代の国家とか国民とかいう概念は、たかだか十八世紀末までしか遡れない、起源の新しいものに過ぎないから、十八世紀以前と現代とを一貫する歴史叙述には不向きである。
 本物の世界史を書こうとする歴史家が取るべき立場は、あらゆる目前の利害や理想や感情を排除して、論理だけをとことんつきつめて史料を解釈し、総合するという立場である。歴史をこうした立場から書けば、その歴史は、歴史家の個人的な意見を超えて、誰にでも受け入れられる可能性を持った「真実」になり得るのである。日本の歴史は、そうあるべきものである。
 なお本書では、英語のKorea に対応する地域を、「朝鮮」でも「朝鮮半島」でもなく、「韓半島」と呼ぶことに統一した。「朝鮮」は、もともと大同江・漢江の渓谷の住民であった種族の名称で、前一九五年、亡命中国人が平壌に立てた王国の国号にもなった。前一○八年に前漢の武帝が朝鮮王国を滅ぼして、その地に楽浪郡などの四郡を置いてから後、この「朝鮮」人は中国人に同化して消滅した。馬韓・辰韓・弁辰の三韓の時代にも、高句麗・百済・新羅の三国時代にも、新羅王国の統一時代にも、高麗王朝の時代にも、この半島を「三韓」と呼んだことはあったが、「朝鮮」と呼んだことはなかった。それが復活したのは、中国の明の太祖洪武帝が一三九三年、高麗王朝に取って代わって王位についた李成桂のために、新しい国号として「朝鮮」を選定してからである。そうした歴史的な事情があるので、「朝鮮」や「朝鮮半島」という名前を、十四世紀末よりも古い時代に適用するのは、時代錯誤である。といって、「韓国」や「大韓」では、「大韓民国」という二十世紀の特定の共和国の略称なので、歴史的名称としてはますます時代錯誤の感が強くなる。しかし「韓」ならば、一世紀にはすでに中国の記録に現れる種族名であり、しかも後に半島を統一する新羅は「韓」の一つの辰韓の直系なので、その統一した範囲を「韓半島」と呼んでも無理が少ない。これが「韓半島」を採用した理由である。
 本書では、漢字にはなるべく振り仮名をほどこして、読みやすさをはかった。その際、漢字音は、音訳の原音が推定できるものは除き、原則として現代仮名遣いで音読した。ただし『日本書紀』や『万葉集』などの日本古典に由来する漢字の地名・人名には、日本読みの古典仮名遣いを採用した。「難波」を、「なにわ」でも「なんば」でもなく、「なには」としたようなものである。これは史料の成立当時の読み方になるべく近づけるという趣旨である。
 本書『日本誕生』に収録した各篇は、それぞれ違う時期に違う刊行物に載せたものに基づいているが、その内容には、今回の収録に当たって徹底的に改訂の手を入れて、著者の最新の見解を表現することに努めた。本書の刊行の実現と、編集の実務、及び改訂すべき点の指摘は、弓立社の宮下和夫社長の熱意にすべてを負うものである。ここに記して深甚なる謝意を表する。