岡田宮脇研究室
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岡田英弘

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 論証:李氏朝鮮の太祖李成桂は女直人(女真人)出身である

岡田英弘・宮脇淳子

戦前の日本で「満鮮」や「満蒙」という言葉が多用されたのは、日本の大陸政策にからんだものであったことは確かです。満洲と朝鮮を一体化する、満洲と蒙古を一つの単位と見なすのは、日本の統治政策に都合がよかったからです。

しかし、だからといって、戦後になって、朝鮮民族と満洲人とモンゴル人を、有史以来まったく別の歴史を歩んできた別の民族集団として扱うのは、行きすぎた民族主義と言わざるを得ません。そもそも「民族主義(Nationalism)」は18世紀まで存在しなかったのですから、それ以前の歴史を「民族」に基づいてのみ判断するのは、史実を誤ることになります。

日本列島のように海に囲まれた島国の人間は、何千年もの昔から今の自分たちにつながる血統が、代々継承されてきたことに疑いを持ちません。しかし、人間の移動がひんぱんに起こった大陸の歴史では、血統は否応なく混じり合います。ところが、日本の国家主義・国民主義があまりに成功したために、現代の朝鮮・韓国人や中国人は、有史以来の朝鮮民族とか、黄帝の子孫の中華民族などという、血統の正統性を主張することになるのです。

混血が劣等なわけではありません。モンゴル帝国の君主チンギス・ハーンは「遠いところの血を入れろ」と混血を推奨しました。私たちはただ、学者の良心に従って、史実を明らかにしたいだけなのです。学問としての歴史を、政治の道具にしてはなりません。

以下にまず、岡田英弘著『モンゴル帝国の興亡』(ちくま新書)を使って、13世紀モンゴル時代の朝鮮半島と大陸の関係を概説し、李氏朝鮮勃興までを語ります。そのあと『李朝実録』の記事にもとづき、なぜ朝鮮の太祖李成桂が女真人出身だと言えるのか、論証します。

これまで本稿の内容を学術論文にしたことはありませんが、『李朝実録』の記事と論証部分は、今年中に藤原書店から刊行される予定の岡田英弘の学術論文集『モンゴル帝国から大清帝国へ』(仮題)に注記として掲載します。


モンゴル帝国と朝鮮半島の関係

 1206年にチンギス・ハーンが即位して建国されたモンゴル帝国は、1227年のチンギス・ハーンの死後、1229年にその第三子オゴデイ・ハーンが後を継いだ。
 1231年、オゴデイ・ハーンの時代に、朝鮮半島に対する征服戦争が開始された。当時朝鮮半島にあった高麗王国の実権を握っていた武臣崔氏は、都を開城から江華島に移して徹底抗戦したため、高麗はこのあと三十年間に六度もモンゴル軍の侵略を受けた。
 1258年、江華島内でクーデターが起こり、崔氏政権が倒れたので、高麗はようやくモンゴルと和議を結ぶことになった。
 1259年、高麗の太子(のちの元宗王)がフビライに降り、その息子忠烈王は、1260年に大ハーンに即位したフビライの娘婿となった。これ以来、代々の高麗王の世子(せいし)(世継ぎの太子)はモンゴル皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、父の死後、高麗王の位を継ぐのが習慣となった。高麗王の母は、みなモンゴル人になったのである。
 1231年から1258年の間、六度におよぶモンゴル軍の侵入によって、多数の高麗人が満洲に連れ去られ、オゴデイ・ハーンは彼らを遼河デルタの遼陽と瀋陽に定住させていた。
 1271年に国号を大元と定めたフビライ・ハーンは、満洲統治のために遼陽行省を置いたが、その重職には高麗人が当てられた。また満洲の高麗人コロニーの王として、高麗王の一族が、瀋陽王のち瀋王に任命された。
 瀋王が高麗王を兼ねた時代には、満洲と高麗本土は統一が取れていたが、瀋王と高麗の世子の関係は微妙で、元朝宮廷の継承争いに高麗王家も関与すると、満洲と高麗本国の関係は緊張をはらむようになる。
 元朝宮廷の権力闘争の余波の一つとして、1356年、高麗国王恭愍王は、久しく元朝の所領であった双城(咸鏡南道の永興)を攻め落とした。このとき双城で高麗軍に降伏した者のなかに、ウルスブハ(李子春)というジュシェン(女直)人があったが、その息子が李成桂(朝鮮の太祖王)で、当時22歳であった。高麗軍はそのまま北に進んで、咸興・洪原・北青の地を99年ぶりにモンゴルから奪回した。
 母方ではチンギス・ハーンの血を引いている恭愍王の、このモンゴルに対する反抗運動は、瀋王派の圧迫から身を護るため、やむを得ずとった行動であった。恭愍王は、高麗本国内の反対派の打倒に成功すると、直ちに元朝皇帝トゴンテムル・ハーンと和解した。
 1368年、紅巾軍の一派朱元璋が南京で即位し、大明皇帝と称して、元の大都(北京)に迫ると、フビライ家の元朝皇族は北方のモンゴル草原に引き揚げた。中国史で言うところの元朝滅亡であるが、元朝皇帝はこのあともモンゴル草原に存続したので、これからをモンゴル史では北元時代と呼ぶ。
 高麗の恭愍王は、直ちにこの明の太祖洪武帝を中国の皇帝として承認した。
 1370年、トゴンテムル・ハーンがモンゴル高原の応昌府で死に、その息子アーユシュリーダラ・ハーンがさらに北方にのがれると、恭愍王は高麗軍を満洲に派遣し、李成桂もこれに参加した。高麗軍は遼陽城を攻め落とし、遼河デルタを一時制圧した。
 この作戦は、遼陽・瀋陽が、歴代の高麗国王と結婚した元朝の皇女の領地であり、従って高麗王国の領土の一部であるという立場を主張するためのものであった。
 1374年、恭愍王は側近に暗殺されて、養子のムニヌ(牟尼奴)が後を継いだ。ムニヌ王の時代には、高麗は明の満洲進出に反発して、北元と親密な関係を回復した。
 1388年、明軍がモンゴル高原深く進攻して、北元のトクズテムル・ハーンが逃走の途中で殺されると、ムニヌ王は北元を助けるべく、再び高麗軍を満洲に進攻させようとした。
 ところが高麗軍が鴨緑江に達したとき、副司令官李成桂らが命令を拒否して、方向を転じて王都開城に向かって進軍し、ムニヌ王を廃位して、昌という王子を立て、またこれを廃位して、王族の恭(きょう)譲(じょう)王を立てた。
 その四年後の1392年、李成桂は、いよいよ恭譲王を廃位して、自ら高麗国王の玉座についた。これを明の洪武帝に報告したところ、新しい国号を何にするのかと問われた。そこで李成桂は、「和寧」と「朝鮮」の二つの候補を挙げて、洪武帝に選択を請うた。
 「和寧」というのは、李成桂の故郷の永興の別名であったが、北元の根拠地のカラコルムの別名も「和寧」であった。洪武帝はもちろん「朝鮮」を選んだ。
 1393年、こうして李成桂は正式に朝鮮国王となった。これが朝鮮(李朝)の建国である。


『李朝太祖実録』の内容  (平凡社『アジア歴史事典』太祖(李朝)の項(末松保和)も参照)

● 『李朝太祖実録』冒頭には「太祖康獻至仁啓運聖文神武大王、姓李氏、諱旦、字君晋、古諱成桂、號松軒、全州大姓也」とあり、本貫が全州李氏であること、新羅の司空李翰(りかん)を始祖として、以下21代を経て李成桂に至ったとするが、第16代まではほとんど名だけが知られるにすぎず、第17代(李成桂4代の祖)からやや詳しい伝記がある。その第17代以後の祖先の活動舞台と居住地を通観すると、前16代につなげるために全羅北道全州(完山)を出発点として、東海岸の三陟から豆満江畔にわたり、そのほぼ中央に位置する咸興をもって活動の根拠地としたように書いてある。 すなわち、「全州李氏」の出身だというのは後世の捏造であると考えられるが、情況証拠しかなく、立証する術はない。しかし、李氏朝鮮王室が全州李氏を大切に扱ったという記録もない。

● 李成桂の父子春は、高麗を東北方面からおさえるモンゴル勢力の拠点であった永興の双城総管府につかえ、千戸(千人隊長)の役職についていたが、高麗恭愍王がその5年後(1356年)にこの総管府を攻略したとき、李子春はただちに高麗に投じ、北に移って咸興を活動舞台とした。4年のち(1360年)李子春は死に、李成桂が家を継いで、東北面上万戸(万人隊長)の職についた。李成桂の活動は、まず咸興から豆満江方面におよぶ女真部族の平定、つぎに鴨緑江上流方面の女真部族、モンゴル勢力の残存するものを討伐し、やがて中央に召し出されて国都の防衛、南方の倭寇討伐にしたがった。彼の本領はどこまでも軍事にあった。(末松保和)

● 『李朝太祖実録』巻一、九頁下、には次のような記事がある。「初三海陽(今吉州)達魯花赤金方卦、娶度祖女、生三善三介、於太祖、為外兄弟也。生長女真、膂力過人、善騎射、聚悪少、横行北邊、畏太祖、不敢肆。・・・」
これを訳すると、「三海陽(咸鏡北道の吉州)にいた元のダルガチ(徴税官)だった金方卦(女真人と思われる)が、度祖(モンゴル名ブヤンテムル、三頁下、李子春の父)の娘を娶って生まれたのが三善三介で、太祖の外兄弟である。彼は女真で育ち(女真の族長になった)、腕の力が人並み外れて強く、騎射をよくし、悪い奴らを集めて、北辺に横行したが、太祖を畏れて、敢えてほしいままにしなかった」というのである。この記事を見ると、太祖も女真族としか考えられない。「外兄弟」には二つ意味があり、一つは「父の姉妹が産んだ子」もう一つは「姓が違う兄弟」である。 遊牧民や狩猟民のような族外婚制をとる人たちは、姓の違う集団と結婚関係を結ぶのを習慣とするから、父の姉妹が嫁に行って産んだ従兄弟を「姓が違う兄弟」と呼ぶのである。だから、李成桂の伯母/叔母が女真の族長に嫁入って生まれたのが三善三介であるとするなら、李成桂の祖父は女真の族長と結婚関係を結ぶような別の族長であった証拠である。どちらの意味にしても、女真族の族長である三善三介が太祖李成桂の外兄弟であるというならば、太祖自身も女真族であったと考えるのが自然である。
『李朝実録』は、朝鮮時代になってからの正史であるから、朝鮮王の家系について、なるべく高麗との関係を重んじるような書き方をしているが、どうしても書き残さざるを得なかったのが、この「三善三介」についての記事である。

●なお、 最後に注意しておきたいことがある。「ジュシェン」という種族名を「女真」と写すのは、朝鮮と宋の漢文史料である。遼・金・元・明の漢文史料、正史はすべて「女直」と写す。ゆえに「建州女直」はあっても、「建州女真」という言葉は存在しない。

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