岡田宮脇研究室
Home | 更新履歴 | モンゴルの話 | リンク集 |


岡田英弘

プロフィール
著書一覧
論文
雑記
発言記録
学会事情
翻訳
書評


宮脇淳子

プロフィール
大学講義
著書一覧
論文
雑記
書評
口頭発表
その他



 〔対談〕モンゴルとは何か?

刀 水 No.7
岡田英弘(東京外国語大学名誉教授) 
宮脇淳子(東京外国語大学非常勤講師)

 桑原迪也(社長)         
○ 中村文江(編集者)          

――目  次――
プロローグ  2
モンゴル人が「モンゴルの通史」を初めて読む!  2
モンゴル国では「悪い歴史」とされてきたモンゴル史  3
二十世紀に粛清されたブリヤート人  4
チンギス・ハーンも「中国人」(!)  5
歴史を学べなかったモンゴル  8
詩人は「危険」?  9
チンギス・ハーンの登場しなかった「歴史」  10
八〇年間、自由にものが言えなかったモンゴル  12
ソ連によるキリル文字政策  14
モンゴル国の縦文字復活決議  16
モンゴル文字のコンピュータ入力  17
モンゴル文字復活に向けて  18
チンギス・ハーンの墓所探し  20
チンギス・ハーンの詣り墓  22
政治と歴史  24
モンゴルの遊牧と農業の現実  25
今後のモンゴル国  27
モンゴル好きな日本人  29
『モンゴルの歴史』『蒙古源流』  30

プロローグ
 
 ◎ 先生、僕は「徳王」という名前を子供の頃に覚えていますよ。雑誌のマンガでやっていました、たぶん『少年倶楽部』か何か…。
 岡田 ええ、「損王」というのもあるんですよ。「徳王・損王」とやってましたね。
 宮脇 何年頃ですか。
 ◎ 昭和十三年か十四年ぐらいです。
 岡田 そうですね。私もね、小学校の頃見たことあります。
 宮脇 支那事変の後ですか。
 ◎ 支那事変が始まってからだと思います。支那事変が始まった時、僕は小学校二年だった。
 岡田 今考えると、徳王というのは、当時は何も知らなかった。
 ◎ 当時は、僕も全く考えなかったんですけれど、徳王は、独立運動をして日本に接近していたんですね。
 岡田 そうです。それでマンガの作者も読者も、徳王という名前を知ったんですよ。
 宮脇 やっぱり西部内蒙古が日本の占領下に入った時に、日本によく知られるようになったんですね。
 ◎ そうですね。
 宮脇 満洲国が誕生した後にね。

モンゴル人が「モンゴルの通史」を初めて読む!

 ○ それでは改めまして、本日はお忙しい中をありがとうございます。
 岡田先生・宮脇先生、『刀水』7号の対談をどうぞよろしくお願いいたします。今日のテーマといたしまして、漠然と「モンゴルって何だろう」というところにももちろん興味があるんですけれども、「その国の歴史」というとき、日本とモンゴル国ではずいぶん違うらしいと知りまして、少し欲張ったお話をお願いしたいと思っております。きっかけは宮脇先生の『モンゴルの歴史』を先頃刊行した折に、「帯に『初めてのモンゴル通史!』と入れてよいですか?」と先生にお訊ねしたことです。私たち日本に生まれた人間にとっては、通史というか、先史時代から今までを通して歴史を見るというのは、天皇の歴史であるかどうかは別として、当たり前のようなことだったんです。
 宮脇 日本列島ではね。
 ○ ところが、今のモンゴル国ではそういうことがない、ということを知った時に非常にびっくりしたわけです。そんなところからモンゴルの「国」とか「歴史」ということについて、お話していただきたいと思っております。モンゴルと日本の関係をそれに加えて、やはり朝青龍、オユンナ、etc…と今、日本で活躍するモンゴルの方たちのことに至るまで、非常に欲張りなのでございますけれども、どうぞよろしくお願いいたします。
 宮脇 実は昨日、東京外語大でモンゴル史を教える、非常勤の授業をしてきました。通年の授業ですけど、毎年、必ず一人か二人、モンゴル人も聴きに来てくれます。『モンゴルの歴史』が刊行されたら、授業中に頒ける約束をしていたんです。それで二冊だけ本を持って行って、あとは注文で手を上げてもらった。一一人の内九人が手を上げて下さって。それで「じゃ、今ある二冊、お金は後でいいから先に持って帰りたい人」って言ったら、内モンゴルからの留学生が一人、「はい!」って。「待ってた」って言うんですね。で、ニコニコして持って帰りました。だから今ごろ一所懸命読んでると思いますよ。モンゴルの人は日本に来ないと、本当の通史とか自分たちの歴史を読めないのですよ。

モンゴル国では「悪い歴史」とされてきたモンゴル史

 ○ 内モンゴルにせよモンゴル国にせよ、「自国の歴史」というのはどういう形であるんですか。
 岡田 それはモンゴル史というのは長い間、共産党の統治の下では悪いものとされてたんです。(笑)
 ◎ なんで悪いんですか?
 岡田 かつてモンゴルが現代の兄弟国であるロシア以下の国を片っ端から征服したという歴史があるからです。それは八〇〇年経っても駄目なんです。(笑)
 ○ 八〇〇年前の恨みですか。
 宮脇 そうですね、要するに負けたからでしょう。モンゴル帝国時代にモンゴル軍が、ロシアおよびハンガリーやポーランドに攻め込んだ。その時にヨーロッパ側は圧倒的に負けたわけです。それで、アジア人に負けたというのはやっぱり屈辱的なことなわけですよ。その時はそういうふうに考えなかったかもしれなくても、二十世紀になって歴史を振り返った時に、あのモンゴル軍さえいなければ自分たちは西ヨーロッパのようにもっと発展していたのにと、ロシアはそう言ってるんです。ロシアは「モンゴルさえこなければ、フランスやドイツ程度には自分たちも大国になっていたはずだ」と言っています。

二十世紀に粛清されたブリヤート人

 岡田 話は飛びますけれど、一九二四年にモンゴルが社会主義になった時、最初のうちはよかったんですが、一九三〇年代に日本が満洲国を作った時に、シベリア鉄道が一ヶ月ほどで日本の支配下に入る恐れがでて、ソ連にとっては大変な痛手だったんです。それで一九三七年にスターリンが命令を下してモンゴルで大虐殺がありました。それもモンゴル人だけじゃなくて、モンゴル人民共和国には北から入ってきたブリヤート人がたくさんいたのですが、彼らは日本側の満洲国とモンゴルと両方に入っていたので、ブリヤート人を片っ端から捕まえて処刑したんです。
 ○ ブリヤート人というのはたしか…。
 宮脇 バイカル湖周辺のモンゴル系の人たちです。ブリヤート人は、二十世紀の初め三つに分かれて暮らすことになりました。出来たばかりのソ連、それからモンゴル人民共和国、それと満洲国。みんな同族だったために、ソ連と満洲国つまり日本とが戦争状態になった時に、相手側に親戚がいる人たちは信用ができないということで…。
 岡田 日本のスパイになるということで、ブリヤート人も一緒に片っ端から殺したんです。
 宮脇 モンゴル人民共和国のブリヤート人は、基本的に大人の男はみんな処刑されたと聞いています。実はソ連が出来た時、つまりロシア革命が起こった時に、ブリヤート・モンゴル人がロシア革命を嫌って満洲と、まだ人民共和国になる前のモンゴルに逃げたんですよ。それでロシア人はそのことを恨んでたんですね。ロシアにとってみればロシア革命が嫌いで逃げ出した人々のわけです。それでモンゴルが今度はソ連の影響下に入った時に、自国にいた人間なのに逃げたという意識があった上に、満洲に逃げ込んだ人たちが日本の影響下にたくさん住むことになった。日本が満洲を勢力下に入れた時、今、岡田が言いましたように、スターリンは非常に恐れたんです。その頃のソ連は、かつて日露戦争で負けているので、日本のことはかなり怯えてた。我々が思う以上に向こうも脅威を感じていたのですね。今から考えたらソ連は大国で、日本なんて簡単に踏みにじったじゃないかと思いますけど、スターリンがまだその時に権力を握ったばかりで、日本に対して非常に脅威を感じていたらしいです。また負けるかもしれないというわけです。日露戦争の時は侮って負けた。満洲国はシベリア鉄道のすぐ側まで勢力を伸ばしていましたし、日本がその気にさえなればシベリア鉄道を分断できたんです。だって一個部隊派遣すれば、鉄道を壊すのは簡単ですからね。ながーい線路ですから、人も少ないし。それで日本が満洲国を建てた後、スターリンがあわててモンゴルに援助を始めたんです。ブリヤート人はソ連のブリヤートにも残っているけれども、満洲国にもモンゴル人民共和国にも住んでいて、今度は戦争が起こった時にスパイになるかわからない。日系アメリカ人が第二次世界大戦中、強制収容所に入れられたのと同じ考えです。それでスターリンは、ブリヤート人の成年男子は片っ端から処刑したんです。一九九〇年、モンゴルで民主化が始まって情報公開が行われていろんな資料が出てきたら、ブリヤート人だけでなく、知識人、字の読める人はほとんど全滅したみたいです。
 ◎ しかしどういう思想ですか?
 宮脇 つまりモンゴルをモスクワの言うとおりにさせたかったんです。モンゴル人は決してモスクワの言うとおりにはなりたくない。自分たち独自でやっていこうという努力を各地でしたわけです。二十世紀の民族主義の精神です。ちょっとでも考えのある人がリーダーになったら、言うことを聞かなくなるわけですよね。ですからモスクワの言うとおりになる人たちだけを残して、トップクラスの知識階級を、何かかんかと難癖をつけてだいたい粛清した、ということがわかってきたんです。それで唯一、ツェデンバルという人が会計で、経理の仕事をしていて字が読めた。彼だけが最後に残った人物で、あとで首相になったんです。実に極端な話です。本当に知識人の男はほとんどいなくなったんです。何十万という数だったそうです。これが北の方のモンゴル人民共和国のお話です。
 ○ それが結局、現代のモンゴルで教えられる歴史というものに影響してるということですね。
 岡田 そうです。

チンギス・ハーンも「中国人」(!)

 宮脇 同じモンゴルといっても地域によってまた別で、モンゴル人は今のモンゴル国だけではなくて中国の中にも住んでいます。中国では内モンゴル自治区をはじめとして、たくさんの地方にモンゴル族が住んでいるわけですが、その人たちにとっても、モンゴル人民共和国と違った意味で歴史は自由じゃないんですね。
 ○ 中国の中におけるモンゴル人にも、モンゴル族の歴史というのはやはり存在しないんですか。
 岡田 中国では元朝があったことは認めるんです。しかし元朝は一三六八年に滅びてしまったと言ってるんですよ。本当は元朝皇帝はあと二年生きているんです、今の内モンゴルで。そればかりじゃない、その後裔もずっと生きて、みんな独立していたんです。しかし、それは無視する。中国史の考え方では、明は元から独立したので、モンゴルは明の時代に入った時になくなるわけです。実際は、明はモンゴルの帝国の中の中国人の住んでいるごく一部分が独立しただけのことなんですよ。ところが中国史では、明代のモンゴル人社会は蛮族なんだということになる。
 ○ 中国では今、そういう形で教えられてるわけですか?
 宮脇 そう! つまり元朝は中国王朝の一つという考え方しかしないわけですよね、中国史では。しかも元朝は南宋を継いで王朝になったというのが、中国の正統史観なんです。中国史というのは二つの王朝が同時に立つということを非常に嫌うので、南北朝は例外的な異常な時代であるとします。王朝というのはきっかり滅びて次の王朝、それが滅びてまた次の王朝となります。それで中国史としては南宋に優先権を持たせるわけです。南宋が滅びるまでは元と書かない。元は既にあるんですよ。あるけれども南宋が滅びた年から年表は元朝になるわけです。日本人は割合に平等に斜め線を引いて、この王朝は実は始まっていますが、こっちも続いてますよというのを平気でやりますでしょう。ところが中国史では、前の王朝とくに漢人の王朝が優先なもので、元朝は蛮族が勝手に王朝を称しているというふうにみなすわけです。それで南宋が一二七九年に滅んでから元朝が始まって、一三六八年には明が大都(北京)に進入してきて元朝が滅亡したというふうに考えるわけです。そうしますと元朝は八〇年か九〇年しかない、たいしたことのない短い王朝と書くわけです。
 そのくせ、チンギス・ハーンを元の太祖と書き、オゴデイを元の太宗と書くんです。フビライは元朝を立ててから祖先を祀る廟を作りました。中国を統治する時に中国式の伝統も受け入れたわけですね。自分たちモンゴルのやり方も続けてるんですけれども、家来に漢人が増えたので、漢字を使う文化もきちんと両立させたわけです。そうしますと祖先を祭る廟を作る。廟号というのがあります。王朝の祖は、最初が太祖、二番目が太宗というのが普遍的な廟号なんです。それでフビライは、自分の祖父であるチンギス・ハーンに太祖という廟号を贈ってお祭りをし、叔父さんに当たるオゴデイを太宗と呼んだ。漢字の皇帝号も後で贈ったわけです。そうしますと、中国の文献の中ではチンギス・ハーンは元の太祖なんですね。モンゴルを元朝と呼ぶわけです。チンギス・ハーンが立てた王朝を元朝と呼ぶ。そこにもう既にすりかえがあるわけです。
 チンギス・ハーンは中国に全然関係ないんですよ。モンゴルの中でモンゴル帝国を作った人です。当時は元朝という呼び名は全くないの。それなのに日本では、基本的に漢文の資料でずっと東洋史研究をやってきて、中国人が書いたものをそのまま翻訳してきたので、今でも日本ではモンゴルと言うと「ああ、元朝ですね」と言うんです。「ああ、ジンギスカン、あれは元の太祖だから中国人ですか」と言う。で、「中国の英傑シリーズ」に「成吉思汗(ジンギスカン)」というのが入るわけです。つまりチンギス・ハーンというのは今の中国人にとっても中国人なんです。なぜかというと元の太祖だから。逆転しているわけです。あくまでも今の解釈なんですね。
 ○ にもかかわらずというようなところもありますよね。さっきのお話で南宋が滅びるまでは元は始まってないことになるということと矛盾してますね。
 宮脇 その矛盾をいったい中国人はどう解釈してるんですか。
 岡田 無視してる。(笑)
 ○ そういう歴史を結局内モンゴルのモンゴルの人たちは学ばされているんですか。
 宮脇 はい。要するにモンゴル人は中国人である。中国王朝を立てた蛮族の一つだった。けれども元朝が滅びた後はモンゴル人はもう完全に中国人の支配下にずっといたんだ、と教えられています。日本語でもそう書いてあるものもあります。中国で書かれたものをそのまま翻訳していくとそのような解釈になるんです。ですから、モンゴルは、たまたま遼・金、つまり契丹人や女真人のように一度は偉くなって、首領が中国王朝の皇帝になったこともあったけれど、元朝がなくなった後はもう二度と皇帝はモンゴルからは出なくて、いつも中国人に支配されていた少数民族(!)である、これが中国史の解釈です。
 ○ それは内モンゴルですよね。で、先ほどの続きでモンゴル国の場合は?

歴史を学べなかったモンゴル

 宮脇 モンゴル国は二十世紀の初めまでは、中国ではないにしても北京にいた満洲人(清朝皇帝)の家来だったわけです。だけれどもソ連の赤軍が出てきて、独立が最終的に可能になったわけで、その間の、どっちつかずの独立したくても支援が得られなかった時代の歴史は、現代のモンゴルでもほとんど誰も研究していないし、封印されてるんです。
 ○ 今でもですか。
 宮脇 研究者の数が極端に足りない。
 ◎ 研究が進むシステムというのがモンゴル国内にはないんでしょうか。
 岡田 ありません。
 宮脇 非常に優秀なモンゴルの歴史学者が三、四人、二十世紀にはいたんです。その人たちが苦労してなんとかやっていこうとしていたんですが、その時代というのはまだ社会主義の時代で、一九二四年にソ連と友好的になった後のことはともかく、それ以前のことに関しては、そもそもモスクワの監視が厳しくて、自由な研究はできませんでした。モンゴル人でも、モスクワとツーカーの人民革命党の党員、政治局員が科学アカデミーのすべてのプロジェクトに必ず一人いて、その人たちがすべてモスクワに報告するわけですね。それでモスクワのロシア人の意向に反したことは一切できなかったわけです。そうしますと結局、モスクワのおかげで、友だちであるロシア人のおかげで独立ができるまでは、モンゴル人は満洲人の虐待の下に中国につなぎとめられていた、ということになるわけです。満洲人と手を組んだチンギス・ハーンの子孫の封建王侯が人民を虐待して、人民はもう塗炭の苦しみを味わう二六〇年であった。こういう歴史が書かれて、私たちはそれを「あーあ」と思って読みました。こんなふうに清朝時代を解釈しているんだなと。で、それ以前のチンギス・ハーンの時代を封建時代というんですね。モンゴルの古い中世の封建時代には、貴族階級と奴隷階級と二つあって、大多数の人民は奴隷階級であった。チンギス・ハーンとその一族は奴隷の上に乗っかって豪奢な生活をした悪い貴族階級であったと。(笑)
 ◎ でもそれは満洲やモンゴルだけじゃなくて、世界中の歴史がだいたいそういうふうに説明してたんじゃありませんか?
 宮脇 ずっとそうですよね。フランスのブルボン王朝だって同じような説明をされるんでしょう、だから革命が起こったと。
 ◎ 江戸時代の人民は虐げられていて……。
 宮脇 だから百姓一揆をしたんですと。
 ○ 岡田先生がこの前お出しになった『歴史とはなにか』で、とてもわかりやすく如何にそういう見方がおかしいかということをお書きになってましたでしょう。それでそのおかしい歴史だけが、例えば日本の場合はそれでもいろいろな書き方の歴史がまだありましたでしょう。でもモンゴル国においては今に至るまでそれだけが残ってるということなのですね。
 岡田 そうです。説明の仕方が違っていても、いろいろな歴史の記述があれば、我々のようにその時代の歴史を振り返ろうという者はそれに出会えますけどね。何の歴史的記述もないということは、事実を何一つ知らない者にとっては、歴史というのは一切ふれることができないものなんです。だから「私たちモンゴル人の歴史は一九二四年に始まっている、それ以前は何もない」ということになる。
 ○ ないということですか。
 岡田 ないんです。
 宮脇 つまり、うまく説明ができず教えるのも難しいのでやめちゃう。歴史を勉強するということ自体が出世に関係ないわけです。出世につながらないから、歴史学徒というのはモンゴルにはこの間までほとんどいなかったんです。ちょっと優秀な若い人はソ連に留学して科学を学んだんです。技術・理科・数学と自然科学がほとんどだったわけで、その他はロシア語が上手になって通訳になりました。つまり国の発展のためには科学を学ぶ方がもっといいでしょう、過去を振り返るよりは。

詩人は「危険」?

 宮脇 ですから本当にやむにやまれずやりたいという人たちだけが文系を選んで、大概の人たちはもうひたすら理系の方の勉強をしたわけです。それで私の友だちの歴史に非常に詳しい人なんかは文学の方に振り分けられた。
 ちょっとモンゴル人民共和国時代の話をしますけど、やっぱりそれでも文学が好きな人がいるわけですよね。それでかわいそうな詩人は、ずいぶん牢屋に放り込まれてるんですよ。つまり少しでも自由なことを謳うと、モンゴル語で自分たちの民族のこととか、自分の郷里のこととかを謳い上げると、国からその民族だけを切り離そうとしている地方分裂主義者と言われて批判されました。社会主義国では、それは非常に由々しい悪事なわけで、反政府活動なんですね。どうしてかというと、自由な精神こそが社会主義にとってはいちばん危険なことなんです。私は社会主義には全然ふれていなくて、年上の人が学生運動をやっていたのを脇から見ていただけだし、想像で言ってるんですけど、それでもソ連に旅行した時に感じたことはあるんです。個人が想像力を豊かにして精神をパーッと羽ばたかせるというのは、人間を政府と無関係の方向に持って行くわけです。そういう人が人民のリーダーになって別の革命を起こしかねないわけですよね。だから詩人というのはソ連でもモンゴルでもものすごく危険視されてるんですよ、人を動かすから。つまり他人に影響力がある、自分一人で閉じこもらないでたくさんの人を動かす人間というのは、政府にとって非常に危険なんです。そういうわけで、九〇年までは作家活動も自由じゃなくて、たくさんのモンゴル詩人が牢屋に入ったと聞いています。

チンギス・ハーンの登場しなかった「歴史」

 宮脇 一九二四年以前の歴史は基本的にはマイナスの歴史だから、専門家以外誰も研究しないし、子供たちに教える値打ちのないものだということで、学校では何も教えられていなかったんです。つまり一九二四年以前のことは歴史教育がないんです。
 ◎ それは国家の政策としてないんですか。
 岡田 ほとんどないんです。
 宮脇 チンギス・ハーンの名前を出しちゃいけなかったんですから。
 岡田 名前が出るのはいけないんです。
 宮脇 教えようがないわけですよ。モスクワはモンゴル人児童に対してチンギス・ハーンを教えることをタブーにさせたんですよ。
 岡田 そうです。
 宮脇 もしチンギス・ハーンのことをちょっとでも知って、モンゴル人が「えっ、昔、ロシアに進入して勝った?そんな偉い人が自分たちの祖先にいたんだから自分たちも偉いんだ」というふうになるとまずいわけです。ですから基本的に知らないままにさせておいた。
 ○ それが二四年から九二年まで続いたんですよね。
 宮脇 はい。ですから教える人が誰もいないんです。
 ◎ ロシア国内ではチンギス・ハーンを消すというわけにはいかないんでしょう?
 宮脇 いや、専門家以外は名前を知らないと思いますね。教育って素晴らしいというか怖いというか、教えなきゃ知らないんです。教えられなきゃないことになるんですよね。
 ○ チンギス・ハーンの名前、「ジンギスカン」とかいろんな言い方をして日本では子供でも知ってますよね。
 岡田 知ってます。
 宮脇 日本人がどうしてチンギス・ハーンのことをそんなによく知っているかと言いますと、アジア人の顔をしてるのに、ヨーロッパにまで軍を進めた偉い人だからですよ。私たちにとって気持がいいわけですよね。そうでなかったらモンゴルについて、そんなに楽しく読むわけがないです。黄色人種でもヨーロッパ人に勝つことがあるのは、胸がすくわけです。だから日本人はチンギス・ハーンが好きなんですよ。
 ○ そのことは、あまり考えてみたことがありませんでした。
 宮脇 チンギス・ハーンは英雄なんです。顔が黄色くてもこんなに偉くなったって。
 岡田 あのね、日本人だけがチンギス・ハーンのことをよく知っている。他の国の人たちはほとんど何も知らないんです。(笑)わかります?
 宮脇 どうして日本がこんなにモンゴルが好きかということを考えた時に、日本人だけではなく、昔々アジアから出た人たちでも世界に広がったり活躍できたことがあったということは、日本人にとってとても幸せな気持になることだと思うんです。だからモンゴルが好きというか、大概の人は気持よく勉強するんです。一方やられた側にとっては、なかった方がいいわけですから、あまり教えないし、よほどの専門家でない限り研究しないんです。
 ロシアの方のモンゴルやチンギス・ハーンの研究者は、だいたいスラヴ民族ではなくてアジア系の民族や、ロシアに対抗意識を持っているウクライナ人などです。自分たちのルーツが知りたいということで、モンゴルや中央アジアを研究するんです。ロシアの学者は、ヨーロッパ学派とユーラシア学派の二つに分かれます。つまりロシアはヨーロッパの一員であるという人たちと、いや、ロシアこそはヨーロッパとアジアをつなぐ特異な国であるという人たちと二派あるんです。で、ユーラシア学派の人たちというのは、自分たちの中に色濃くアジアの影響とか血を感じてる人たちで、彼らは、自分自身がチンギス・ハーンの子孫だという可能性もあるわけです。だから、ロシアにモンゴル研究者は多いですよ。もう一つ別に政治的な目的から、シベリアや中央アジアをロシアにつなぎとめておくための植民地政策の一環として研究するという動機もあります。だからロシアではアジア学は盛んです。
 学問ってやっぱりそんなに純粋なものじゃないのね。だって日本の満蒙政策を考えてください。日本がどうして戦前あんなに中国学、ロシア語研究、モンゴル・満洲研究が盛んだったかと言いますと、切実な問題があったわけです。日本人が統治をする時に現地を知る必要がある。で、学者がその研究をすることに莫大なお金が下りるわけです。東南アジアの多くの言語も、この時日本の大学で教えられるようになりました。ですから学問というのは、そんなに中立なものではない、国家と密接な関係があると私はいつも切実に思っています。国家の政策に学問が影響されるのは決してよその国の話ではないのです。ところで先ほどの話に戻しますと、モンゴルは自由にものが言えないんです、まだ。

八〇年間、自由にものが言えなかったモンゴル

 ○ 今も?
 岡田 今も。でも、少しずつはよくなってきてるね。
 宮脇 モンゴル国は結局あまりにも空白が長すぎて、自由がなく研究もできないままに八〇年が過ぎて、三世代経ってしまったんですよ。そうすると、口伝えに聞いた覚えもないわけです。伝統が一度完全に断絶しているので、手探りなんですよ。二世代だったら「小ちゃい時におじいちゃんから聞いたからそれ覚えてる」って言えるけれども、八〇年経っちゃうと聞いた覚えもないんです。だからこの間モンゴルに行ったとき、通訳の日本語の上手なお嬢さんに何を言っても、彼女は「ああ、そんなことだったんですね」とか、「なんか言葉だけチラッと聞いたことあるけど何のことだか全然わからなかった」と言うんです。チンギス・ハーンは名前しか知らなくて、彼に子供があったかどうかも知らないんです。本当に何も知らないんですよ。
 私たちはモンゴルで、モンゴル史の専門家だからと新聞社のインタビューを受けました。若い女性のインタビュアーさんが私たちに歴史のことを訊くんですが、まず「チンギス・ハーンはどんな人だったんですか」って訊くんですね。それで少し説明して、「でもチンギス・ハーンの時代に書かれたものは何もなくて、チンギス・ハーンの孫の時代ぐらいから、やっと年代もわかるようになるんです」と言って、それから後の話をしようとするんですけど、「やっぱりチンギス・ハーンのことを教えてください」と。それ以外のことはまだ受け皿がないんですね。もうとにかく現時点ではチンギス・ハーンだけが歴史上の人で、それ以外に何があったかなんて、基礎知識がゼロなんで。
 ○ 言われてもまるで考えられないということですね。
 宮脇 入らない。「チンギス・ハーンって、そんなに周りの国に悪いことをした人ですか?」「どういう人だったと思いますか、本当に偉かったと思いますか?」って訊くの。
 ○ そういう訊き方になるわけですか?
 宮脇 そうそう。それでね、「チンギス・ハーンの時代に書いたものってほとんどなくて、チンギス・ハーンの孫の世代にやっと、チンギス・ハーンがどんな人だったかを書いた資料がでてくるのよ」と私たちが言うと、「じゃその孫の時代の本って誰が書いてるんですか」と訊いてくる。「ペルシャ人と中国人が書いた」と言うと、「チンギス・ハーンのことをすごく悪く書いてるんじゃないですか」と言うの。私たちが「あの時代はモンゴル人が主人で、ペルシャ人も中国人も家来だったから、自分たちの主人のことだからすごくよく書いてるの」と答えると、「えーっ!」って感動する。
 岡田 それを知るのは初めてでしょう。
 宮脇 「その資料はどこに行ったら読めるんですか」「どうして先生たち、日本でそんなにまで研究ができたんですか」って訊かれるわけです。ですから「漢文の資料もペルシャ語の資料も世界中のいろんなところの図書館にあるし、出版されているものもあるのよ」って言うと、「モンゴルにはないです」って答えました。
 岡田 そりゃそうですよ。
 ◎ 一つの国を八〇年かけて、そういうふうにしちゃうっていうのはどういうことですかね。
 宮脇 だから知識人を全員殺した。字の読める人はほとんど生き残れなかったんです。実は、これモンゴル人民共和国だけじゃなくて、カザフスタンも、キルギズスタンも、ウズベキスタンも同じことが起こったんです。当時ソ連は、地方でリーダーになりそうな人は全員粛清させたんですよ。それで、どこが社会主義や共産主義がいいって言えるのでしょう。
 ○ それにしても少なくとも負の部分を含めて、つまりあったことがあったままにそこに書かれているものを読むことができない国に生きる、ということが感覚的によくわからないです。
 岡田 わからないです、ねえ。

ソ連によるキリル文字政策

 宮脇 モンゴルではスターリンが一九四〇年代にモンゴルの古い縦文字を廃止させて、ロシア文字(キリル文字)に切り替えさせました。つまりモンゴルは縦文字を今後使わない、キリル文字を自分たちの文字にするという政策を強制的に導入させられたんですね。実はその前に、モンゴルだけではなくて中央アジアも含めて、ラテン文字化運動が始まっていたんです。モンゴルの縦文字や中央アジアのアラビア文字は読みにくいし、話すのと文字の間の差が大きすぎるんですね。理系の教育にも、数字を入れたり計算する上でも不便だから、話すとおりに綴りましょうという運動だったんです。この計画はスターリンに潰されて、ロシア人が使用していたキリル文字になったんですね。西側と連帯されるのが嫌で、すべてモスクワを通して、モスクワが検閲した資料だけが届くようにという、冷戦時代の賜物だと、我々は思いますけどね。
 ただし、このキリル文字というのは毛嫌いする人がいますけど、あれはあれでちゃんとしたアルファベットですので、それなりのインターナショナルだったわけです。ですから、当時の我々から言うと東側、共産圏に関して言えば完全な共通文字だった。しかもあのキリル文字の元はギリシャ文字ですから、それほど遅れているわけでもなく、別のアルファベットに統一したという意味はあるわけです。それでモンゴル人民共和国はキリル文字を取り入れました。粛清もされましたけど、北のブリヤート・モンゴル人は十七世紀からロシアの支配下に入っていたので、すでにロシア語とモンゴル語のバイリンガルの人たちだった。そのブリヤート人がロシアの文化、ヨーロッパ文化を仲介してモンゴルに入れて、モンゴル人民共和国の国づくりを手伝って、モンゴルはいちおう独立国家として二十一世紀を迎えたわけですよ。
 私はソ連共産党の悪口ばかり言いましたけど、別の意味でソ連はソ連なりの国際化とか普遍化を推し進め、モンゴルが他の国との交流をする手助けをしたわけです。それで、モンゴルの子供たちはロシアや東ドイツなどに留学しました。当時の共産圏では、東ドイツが水準が高かったので、優秀なモンゴル人は東ドイツ留学をしたんです。それで、現在でもロシア語だけじゃなくてドイツ語のできる知識人がウランバートルにはたくさんいます。ですからソ連時代が何もかも悪かったわけじゃないんです。
 ただ、モンゴルの歴史に関して言えばマルクス主義一辺倒で、古い時代は悪い時代で共産制になるのが最も幸せである、だからその悪い時代は負として、未来に対する教訓として勉強しよう、という態度でしかないわけです。それでさっきちょっと話しかけましたけど、九〇年までモンゴル国立大学の歴史研究はすべて共産主義、マルクス主義研究だったんです。それ以外の歴史はないんです。そうですよね、だってマルクス主義に反するものは全然教える価値のないものだし、それは歴史じゃないんですもの。じゃあ縦文字のモンゴル文字とか古いモンゴル史はどうしていたのかというと、すべて文学コースだったそうです。モンゴル人はモスクワの批判をかわすために、それらを文学というふうにごまかしてこっそり教えたわけです。非常に優秀な学生、一年に一人か二年に一人か、あるいはもっと少ない学生を科学アカデミーの心ある学者が引き抜いて自分たちのところに連れてきて、モンゴル文字を忘れないように、満洲時代も研究するように訓練して残したわけです。だから今、四、五十代の学者の中で、チベット語が読める人一人、満洲語が読める人一人、古い時代のモンゴル史研究者一人というように、伝統を引き継いでいるんです。その人たちがようやく次の学生を育てられる時代になりました。
 ◎ すごいですね。
 宮脇 すごいでしょう。かわいそうになるでしょう。そんなに切羽つまってたんです。今人口が二四〇万人いますが、一九二四年人民共和国が出来た時は六〇万人、それからノモンハン事件の時九〇万人ですからね。その上知識人が死んじゃったし、その生き残りの厳しさというのは、人口数を考えてくださったらわかるかもしれない。
 ○ 大変な歴史ですねえ。公には使っちゃいけない文字を学ぶということも、公にはしちゃいけないことになってたのですか。密かに学んでたのですか?
 宮脇 密かにというほどではないのです。モンゴルは幸せなことに国民が一つで、ロシア人は顧問として入ったけれども首相はモンゴル人がなったし、モンゴル人が党書記だった。だから公の出版物とか目に見えたところでさえなければ…。
 国立大学のモンゴル文学科では古い文字を教えていたんです。ただ、教えて卒業しても就職先はないわけですよね、学校で教えるわけじゃなし。ですからその中の優秀な子が科学アカデミーの研究所でずっと地味に研究を続ける、そういう形だったんです。

モンゴル国の縦文字復活決議

 ○ 一九九二年のモンゴル国になって、たしか文字もまたモンゴル文字を使うことになったというような話を聞いたことがあるのですが。
 岡田 ソ連が崩壊して、モンゴル人民共和国もモンゴル国になった時、「ソ連がすべて悪かった」ということになった。それで、モンゴルの縦文字を復活しようと国会で決議した。九四年までにみんな古い綴りに戻して縦書きにしようとね。そして始めてみたら、大人は誰も綴れないんだ。(笑)
 宮脇 モンゴル人って結構気が短いんです。みんなで「そうだ!」と言ったらパッと決める。でも駄目だったらまたすぐに切り換えるからそれはいいところなんだけど。あの時モンゴル人はみんなソ連のことは何もかも嫌いになった。キリル文字も嫌い。それで国会で議員たちが、じゃあキリル文字は廃止してモンゴル文字にしようと決議した。
 ○ 国会で決議したんですか。
 宮脇 最初に決議した。結論が先、実際どうするかということはそれから考えるんです。で、ユネスコの支援を要請して、我々も呼ばれたんです。昔使っていた古い縦文字の活字は八〇年以上たっているのでボロボロで使えない。どうやって印刷するかという時に、たまたま東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)の日立製大型コンピュータで、私がモンゴルの縦文字の合成に成功してたんです。
 ○ 先生がなさったんですか。
 宮脇 日本で初めてね、世界で三番目。私がフォントも全部作成して、コンピュータに形を打ち込んだの。
 ○ えーっ!
 宮脇 それ、とても大変だったんです。
 ○ すばらしいですね、何でもおできになるのですね。


モンゴル文字のコンピュータ入力

 宮脇 何でもしたの、その頃、言われたら。まず字体を選ぶ時に、縦文字のモンゴル文字には字体がいくつもあるんですが、活字は大きく分けて二種類あります。まずロシア領のブリヤートに、ヨーロッパ人がキリスト教を布教に行った時、聖書をモンゴル語に翻訳するために活字を作ったんです。独特な丸っぽい活字で、それがヴォルガ・カルムィクやブリヤートの古い文献をサンクト・ペテルブルクなどから出版するのに使用しました。
 一方、内モンゴルでは中華人民共和国になっても縦文字をそのまま使っています。中国の統治方針ではいちおう自治区なので、軍隊は駄目だけれど、文字は持ってもいい。それで縦文字で印刷するために、清朝時代の手書き、あるいは木版本の形によく似た、つまり墨で書く字に近い活字を、内モンゴルは使って本を出版しているわけです。その時になぜモンゴル縦文字の活字を作ることになったかというと、ウランバートル方言、ハルハ方言と言うんですが、モンゴル国の言葉は東京外国語大学のモンゴル語科が教えているけれども、内モンゴル方言はその頃日本で全然教えられてなかったんですよ。それで内モンゴルの人を呼んでAA研の言語研修で集中講義をするという計画があったんです。
 そうしたら教科書が必要なわけです。教科書は印刷しないと誰かが手書きするのは大変です。内モンゴルから一人先生を呼ぶなら、やはり内モンゴルの活字でいこうということになりました。内モンゴルの本をスキャナーで読み取ったのですけど、拡大すると汚いじゃないですか。それで私がすべての文字のドットを直したんです。その時内モンゴルから結構偉い言語学者たちがAA研にいらしていて、全員が見に来ましたね。それで、このはねはもう少し長い方がいいとか、私がやってる最中に口うるさくあれこれ言いましたよ。
 問題は、アルファベットで入力して、これをコンピュータで縦書きで出力する場合、モンゴル文字というのは語頭と語中と語末とで形が違うんですよ。同じ「A」でも、頭に来る「A」の時はこの字、真ん中の「A」はこの字、お終いの「A」はこの字、前後にスペースがつけばまた違う独立系の「A」にならないといけない。私は技官と二人で数式を考えました。私が技官に「この字はこういう時に出るように」と説明して、数式をたくさん作って、そうしたら機能したんです。素晴らしくきれいだった。でも商売ではないですから、そのまま全部東京外国語大学AA研に置いてきましたけどね。
 私はこれを日本モンゴル学会で発表しました。縦文字を印刷した見本と、入力した変換前のアルファベットと、ついでだからもう計算式も全部『日本モンゴル学会紀要』に掲載したんです。そうしたらそれが日本のモンゴル大使館からユネスコに回って、パリのユネスコ本部から、あれはきれいだったから是非それをモンゴル人に教育してやってくださいと連絡が来たんですね。

モンゴル文字復活に向けて


 宮脇 それで九二年、生まれて初めて岡田と二人でモンゴル国に行ったんです。第六回国際モンゴル学者会議に参加したのですが、ついでにユネスコのワークショップもするから出席するように、ということでした。お金がなくて足代も出ないから、学者が集まったついでにするということで。そのワークショップで、この文字きれいとみんなが言いました。でも私は、これはコンピュータが大きいからきれいなんで、パソコンで打てるようにしないと実用的じゃないし利用価値がない、と説明しました。もうその当時すでにウランバートルにパソコンは入っていました。モンゴルは人間が少ないから、トップの技術を持ってこないと何もできない。モンゴル人は優秀な人はすごく優秀で、その人たちはパソコンの技術からプログラミングまで何でもできるわけです。その人たちにいろいろ説明したんです。
 でも私たちは最後に言いました。「けれどもこれはやめた方がいい。縦文字に変えるということは逆行です」「実用価値から言うとキリル文字をそのまま使って近代化した方がいいに決まってます」と。だって縦文字というのは十三世紀の文字なんです。だから現代の発音との乖離が大きいんです。キリル文字は借り物の文字かもしれないけれど、しゃべったとおりに書いてあるわけです。我々外国人でもそのとおりに読めば相手に伝わるんです。「はるかに実用的なんだから、やめるなんて言わないで縦文字と併用しなさい。日本だって三つも字持ってるんだから」と。縦文字に戻す計画はやめて、キリル文字を禁止なんかしない方がよっぽど将来的です、ということを言い置いて帰ったわけです。
 私たちはそういうふうにして助言だけしたのですが、嫌だったのは、日本のコンピュータ会社が廃棄処分にするようなワープロにモンゴル文字を乗っけて自分たちの儲けにしようという動きがあって、いろんな会社が名乗りを挙げたらしいんです。あんな文字、私が一人で三ヶ月ほどでやったんだから誰でもできるんだと思って、我々を入れなかったわけ。そんなのチョコッとやればできるはずだと自分たちで勝手にやったらしいです。
 ○ モンゴル語を知らない人たちが。
 宮脇 そうそう。
 ○ なんて会社なんでしょう。
 宮脇 はい、で、外れたらと言われたの。それで、まあ気楽だし、そのままになりました。その後モンゴルでは、議員さんたちが「どうせモンゴル語でしょう。僕たちの言葉なんだから習えばすぐわかるよ」と言っていたのが、習っても習ってもできるようにならないんですよ。(笑)で、モンゴル大使館の人に「ねえ、読めるようになった?」って訊いたら、「うううん」とか「ちょっと年を取りすぎた」とか言って。(笑)みんな四苦八苦しだしたわけ。結局、縦文字に変える決議だけしたけど、文書を出す側も受け取る側も読めないじゃないですか。(笑)もう本当におかしいのよね、マンガみたいなの。縦文字の復興運動をしたというのは、年寄りの文学者なんかが多い。「縦文字嬉しい」、「縦文字の新聞出した」とかやってるわけですけど、大多数はこれまでどおり、とにかく毎日に追われてなかなか勉強しても読めるようになれない。
 そのくせ、理念ばかり走って小学校の一年生からいきなり縦文字を教えだしたんです。この時に教科書がないんでまた日本人に援助させた。それで、日本の「ビブリオ」という洋書を扱う書店をやっている川村光郎さんて知ってる? 彼は大昔モンゴルに山登りに行ってから、もうひたすらモンゴル贔屓で、縦文字の美しい小学生用の教科書を、当時日本にいたロブサンジャブという先生に手で書かせて絵を入れて、「あいうえお」から作ったわけです。たくさん作ってモンゴルに寄付した。教える人を見つけるのも大変なわけですよ、みんな知らないから。とりあえず小学校一年生・二年生の新入生に縦文字を教えたわけです。それで丸二年経ったら、そのかわいそうな一年生・二年生はほとんど文盲状態になってしまって、町中に出ても読むものがない。新聞は読めない、それから童話が読めない。自分の名前がその文字で書けるだけなのよ。読むものがない。(笑)それで「えーっ! これは駄目だあ」ということになって、今度はまた国会で、しばらく延期にしようと。かわいい国でしょう、モンゴル好き。(笑)
 岡田 二〇〇〇年が過ぎたら考えましょうということになったんです。
 宮脇 思いきり延期になって、それで子供たちには両方を教えることになりました。基本的にはキリル文字に戻して、高学年で縦文字を教えているようです。縦文字はデパートの看板や新聞の見出しに使ったりというように、シンボルとして生き残りましたけど。
 ○ ロゴみたいなもんですね。
 宮脇 そう。正書法とか考えてから変えなさい、なにも前の文字を禁止しないで両方使った方がいいよって、私たちはそう言い置いてきたの。よかったですよ、やっぱりね。
 岡田 そのとおりになった、やっぱりね。
 宮脇 それで結局そのユネスコの援助の話も立ち消えです、たぶんね。儲け仕事は多分なかったでしょう。それで私の作ったそのフォントですけど、私がドットの拡大コピーを配ったので、結果的に日本で他のパソコンでそのドットの形を使って成功しているし、それから私の仕事を助けてくれた東ドイツの言語学者が、その字体を利用したパソコン用のソフトを作って販売に成功しました。けれども彼が言うのに、全世界のモンゴル学者に一〇個も売れてないんですって、モンゴル人には寄付したし。(笑)だからいちおう世界中で縦文字をコンピュータで出せるところには来てるんです。
 コンピュータの縦文字をどのように使っているかというと、言語学者がモンゴル語の本を書く時に、途中で「こういうふうに書いて」という見本に使います。私が外国語大学に置いてきた文字は国家の所有なので、研究目的なら誰でも使用できるということで、大阪の国立民族学博物館に内モンゴルから来た留学生が、この活字を使って本を出版しました。だからいちおう生き残ってるんです。
 ○ モンゴル国がソ連から完璧に離れた時に、モンゴルの昔の文字が復活したということを日本の新聞で見たんです。で、ああ、そうなんだと感心していて、その大変さを私は何も考えなかったので、ああ、よかったわねと思ったんですよ。(笑)
 宮脇 もうドタバタ騒動でしたね。まあいちおうは残った。それからみんなが読めるように勉強も始めた。でも読むのはやっぱり難しいんですよね。

チンギス・ハーンの墓所探し

 宮脇 今でも内モンゴルでは縦文字を使っていますが、読める人はどんどん減っています。内モンゴルではチンギス・ハーンは名前はタブーじゃないんです。どうしてかというと中国の英雄だから。
 岡田 中国人なんです。
 宮脇 ですから『元朝秘史』を映画にしたり、チンギス・ハーンのお墓を建てたりして、チンギス・ハーンを観光資源として利用するというふうに生き残っています。中華人民共和国の立場では、モンゴル人は中国の少数民族ですから、チンギス・ハーンもエキゾティシズム、要するに違いを際立たせて、それを観光として、というような形ならOKなんです。ですから北がまだモンゴル人民共和国の時代に、チンギス・ハーンのお墓を作っちゃったんですよ。
 岡田 チンギス・ハーンが生まれたのは今のモンゴルとロシアの境なんですよ、ほんとはね。ところがそれを東の方に移して、中国の国内の、現在はホロンブイル盟にある何とかというところに生まれたということにしてるんです。
 宮脇 それから、チンギス・ハーンが亡くなったのは、たしかに今の甘粛省なんです。西夏を征する最中に六りく盤ばん山ざんというところでチンギス・ハーンは亡くなったんです。その時に急いで牛車に遺骸を乗せて、何人かの護衛とともにまっすぐ北に、つまり元々の聖地だったモンゴルの中央に持ち帰って、そこでお葬式をあげて山の中に埋めたんです。チンギス・ハーンの遺言は、自分の墓所、埋まったところは誰にもわからないようにしろということだったので、その「起き輦れん谷こく」に埋めた後に…。
 岡田 馬を走らせて平らに踏みつぶして、その上に木を植えると。
 宮脇 で、二代目のオゴデイの時代に見に行ったら、もうどこかわからなかったという記録がちゃんとあるわけです。その聖地にチンギス・ハーンの子孫も大勢埋められたんですね。民主化になってすぐ、一九九〇年直後に、チンギス・ハーンの墓探しの「ゴルバンゴル・プロジェクト」がありました。聖地は三つの河の源流がある山なので「三つの河のプロジェクト」という意味ですが、読売新聞がスポンサーになったんです。江上波夫先生が、世界帝国の君主だから、秦の始皇帝のような素晴らしい墓が出るだろうと、読売新聞の社長に言ったらしいです。
 ◎ 知らなければ、そう思いますね。
 宮脇 ちょっと言われたらそう思いますね。それで三年間と限って日本から考古学者が乗り込んで、ヘリコプターを飛ばして、金属探知器を使って墓を探したんです。
 岡田 それでケンテイ山脈のあたりをグルグル探して歩いたのね。それで結局見つからなかったんです。
 宮脇 三年経っても見つからなかったんですね。これには裏の話がたくさんあるんですよ、実は。そもそも聖地の広さというのが北海道の三分の一くらいある。当時この調査に対しては、モンゴルの評判は非常に悪かったんです。お年寄りたちが、チンギス・ハーンの墓荒らしだって言ってすごく嫌がった。聖地に立ち入るだけでも畏れ多いと言って。新聞なんかに結構投書も出たんですね。で、まあ見つからなくてよかったと。後で聞いた話では、モンゴル科学アカデミーと日本の合同調査だったんですけれども、もし万が一、墓が見つかっても絶対掘らないと約束をしていたんですね。
 それから大分後になって、我々の友人のオーストラリアに住んでいるモンゴル学者、実は母方でチンギス・ハーンの血を引くイタリア貴族なんですけれど、彼が現地に入ったんです。彼は文献学者ですので、お墓に関する資料を全部知っていて、自分の調査について報告書を出しました。彼は、日本隊はどうやら最も可能性のある場所を避けて調査したらしいと言っています。つまり現地の科学アカデミーとの約束を守ったんですね。
 日本の調査隊長の加藤晋平先生は、匈奴・突厥時代という古い時代が専門で、ついでというか、結果的に匈奴と突厥の墓を山のように発見し調査したんですね。非常に満足したの。それで時々モンゴル時代の墓も見つけたんですが、それ以前のお墓に比べたら何もなくて本当に質素だった。文字も出ないし副葬品もないんです。突厥時代・匈奴時代のお墓は立派なんです。チンギス・ハーンは、贅沢は駄目、質素にしろと子供たちに遺言をのこしてるんですね。本当にチンギス・ハーンの言ったとおり、モンゴル時代の墓はすべて非常に質素だったそうです。ですから万一チンギス・ハーンのお墓が見つかっても本当に誰のかわからないかもしれない。
 ○ 見つかってたかもしれないのですか?
 宮脇 見つかってないと思うんですね。つまり、いちばん大事でいちばんありそうな決め手の山は避けたらしい。めでたく約束は守られたんです。

チンギス・ハーンの詣り墓

 宮脇 さっきの話に戻るんですけど、チンギス・ハーンは、自分を埋めたところはわからないようにしろと遺言しました。モンゴル人はその時、埋めた墓ではなくて詣り墓を別にこしらえました。日本でもそうしますよね。それで山には行かないで、その手前の麓でお祭りをしてたんです。それで詣り墓、まあ廟ですが、廟といっても移動式のテント、ゲルの大きなものなんです。そこに、文献によりますと、チンギス・ハーンの人形があって、それにお供えをして祀ったんです。もうその時はチンギス・ハーンは神様なんですよ。日本の徳川家康が東照宮に祀られているのと同じです。それで、チンギス・ハーンに仕える神官たち、これをダルハトと言うんですが、彼らは一部族という扱いになって、チンギス・ハーンに仕えるから税金も免除になり、その詣り墓のテントごと遊牧していたわけです。羊で食べているのだからみな移動するわけです。そのあたりで遊牧して詣り墓を守ってたんです。
 ところが元朝が中国を失って北に帰った後、西モンゴルのオイラトと元朝の遺民たちの間で勢力争いの大戦争になった。で、元朝の一族はあまり勢力が強くなかったので、彼らはチンギス・ハーンの詣り墓を持って逃げて、黄河の湾曲地帯の中に入ったんです。それでそこをオルドスと言うようになった。オルドというのはモンゴル帝国時代「宮殿のテント」のことで、帳殿と言ったりもします。オルドを守っていた人々のことを複数形でオルドスと呼びましたので、かれらが移住した黄河の湾曲した中をオルドスというようになったんです。オルドス部族はその後もテント形式のチンギス・ハーンの詣り墓をお祭りしながら遊牧して暮らしていました。
 それを一九五六年に中国共産党が移動をやめさせて、オルドスの中に固定のチンギス・ハーン廟を作ったわけです。そこにチンギス・ハーンが使っていたという旗印とか鎧とかを飾っています。廟の形はテントだった頃の形をまねています。その廟で大々的にチンギス・ハーン生誕何百年とかのお祝いなどをして、今でもそこでダルハトがチンギス・ハーンに奉仕しています。それで、日本人観光客をそこへ連れていって言うのに「本当はチンギス・ハーンの遺骸はここにあるんだ」。その説明が「ここが六盤山からケルレン川に行く途中に当たるんだけれども、牛車がここで一歩も動かなくなったのでこっそり遺骸をこの下に埋めたんだ」と言うのです。
 私の知っているおじさまから電話がかかってきて、「先生、先生、僕すごいこと聞いてきました。この間、チンギス・ハーン廟へ行ったら、内緒の話だって聞かされたんだけど、本当にその土地に言い伝えがあって、チンギス・ハーンはここに埋まってるって。(笑)大変ですよー」とか言う。中国では、チンギス・ハーンは偉大な中国の英雄だから、生まれたところも死んだところも中国国内に移したわけです。もう歴史の書き換えです。

政治と歴史

 ◎ モンゴル国ではそうなりますと、新しくチンギス・ハーンとか、それ以前からのモンゴルの歴史というのは、これからは教えるという方向にあるわけですよね。
 宮脇 科学アカデミーにいる私の友だちが、歴史の教科書を書くと言っています。ただ問題は、モンゴル国の国史を書かなきゃいけないということですよ。
 岡田 世界中に広がったモンゴル帝国の歴史でなくてね。
 宮脇 つまりロシアと中国にいるモンゴル人のことをどう処理するかということで躓いてるんですよ。国史だから大モンゴル主義になってはいけないわけです。非常に難しいですよ。だって国境を越えない歴史を書かなきゃいけないから。もうほとんど不可能ですよね、はっきり言って。
 ◎ でも大モンゴルになったことはあるわけだから、それを書かないのはちょっとやっぱりおかしいですよ。
 宮脇 チンギス・ハーンのことは書くと思うんです。そこから現在のモンゴルにまで来る間をどう説明するかですよね、途中を。だってもし若い子たちがロシアと中国を恨みに思うようなことを書いちゃったら、またそれはそれで政治問題になるから、でしょう? 本来自分たちの領土だったのに取られちゃったと思うとしたら…。歴史というのは本当に大変なんですよね。(笑)
 ◎ でもその前にはモンゴルが世界中で君臨してきたんだから、それで「おあいこ」というわけにはいきませんか。
 岡田 駄目ですね。
 宮脇 それともう一つ非常に大きな問題は、私たちの知り合いの今の優秀な学者にしても、小さい時からの教育はマルクス主義で、ある程度大きくなって一〇年前からいきなり違う思想があるということを学んだわけですよね。で、マルクス主義だと、常に歴史というのは政治なわけですよ。私の友人たちはかなり賢いので、そのバランスを取れると思うんですけれども。悪い例というのがよその国、ウズベキスタンとかカザフスタンとかにありましてね。これまではソ連の伝統の歴史を教えられてきた。押しつけられた。だからこれを逆転させた裏返しの歴史を書こうとするわけです。それ以外知らないんですもの。バランスと言っても結局揺り戻しになるわけです。
 一つちょっと極端な例を知っているんですけれども、中国の中の新疆ウイグル人の歴史家がこういうのを書いて牢屋に入っちゃったんです。「ウイグル人は中国人より古い人種でアジア人の最初はウイグル人だった。ウイグル人からモンゴル人も中国人も出た」と書いたんだそうです。それで当局の怒りにふれた。でもその人にしてみたら、中国がいつも言っていることを逆転させたわけですよね。その土地には昔、中国人はいなかった。二十世紀に来たんだのに、中国人は「ウイグル人もチベット人も古来から中国人だ」とか言ってるわけじゃないですか。だからその言い分を逆転させて、俺たちの方が古いんだと言ったわけですよね。我々から見たらまたなんてマンガみたいだと思うかもしれないけど、本人にしてみたら他のやり方を習ったことがないわけですよ。大変ですよ。
 ウズベキスタンはティムールを建国の英雄と言って持ち上げていますが、私たちにしてみたら非常に面白いのは、ウズベク人がやってきてティムールを追い出したんですよ。それで、ティムールの子孫がインドに逃げたわけですね。それなのにウズベクの英雄もないもんだと思うんですけど…。彼らは歴史の中でロシア人が来る前の偉人を探したわけですが、結局いちばん偉いのはティムールだったわけね。チンギス・ハーンを嫌いなのはイスラム教徒でなかったからなんです。ティムールだって結構破壊したのですけど、イスラム教徒だから。私もちょっと気になったんで、「いくらなんでもウズベクって北から来てティムールのチャガタイを追い出したじゃない」って言ったら、「うん、でもティムールの一族のトップだけ出て行ったけど、残りは全部まだここにいるということなんだよ」と。(笑)「ウズベクは先住民と混血したんだから、いいんです」というふうに言い換えて、ティムールをウズベク民族を象徴する英雄として銅像を建てて、民族のアイデンティティにしようとしています。ほんとうに笑っちゃいけないんですよ。そういうふうにしないと国づくりができないわけです。いかに国家とか民族が幻想かがわかりますが、幻想がなければ外からの勢力に対抗できないわけです。

モンゴルの遊牧と農業の現実

 ◎ ちょっと伺いたいんですけれども、遊牧生活の生産力というのは古代以来そう変わらないんですね。そうすると連中はどういうふうに考えてるんですか。中国政府は定着を進めてるんでしょうけど、遊牧民自体はどう考えているのでしょう?
 岡田 遊牧と農耕は生産形態が全く違いますからね。遊牧は非常に広い場所を使ってたくさんの羊を飼って、そしてそのうち時々一頭を殺して食べる。ひとところに住んで周りの土地を耕してるというのと全く違うんですよ。一か所に定着するということはできないんです。モンゴル高原ではできないです。実は中国の内モンゴルも同じで、だから定着して農耕している人間はみんな飢えてるんです。
 ◎ 飢えてる? それじゃ遊牧している連中は飢えてないんですか。
 岡田 中国では遊牧はもうなくなっているんです。みんな定着させて、農耕をさせて、そして飢えている。
 ◎ 飢えているということは農耕の技術が優秀でない?
 岡田 農耕の技術はいくらあったって駄目なんです、雨が降らないんだから、そこはもう。土地そのものが条件が悪い。それがわからないんですよ、北京の共産党の幹部らはそのことがわからないんです。つまりみんな熱心にやれば食えるはずだと言うんです。
 宮脇 日本からも植林に行っているけれども、砂漠化が進行しているから、いたちごっこもいいところで、植林をする以上に砂漠化しているわけです。二十世紀の初めから中国で農民の数が爆発的に増えたんです。だから南で食べていけない人たちは、とにかく食べられる場所を探してどんどん入植を始めるわけですね。貧しい農民が来るわけだから、とにかくどこでも手当たり次第に耕すんです。そうすると三年ぐらいでそこは駄目になる。メンテナンスが悪いわけだし、そもそも草原は風が強くて耕した土は飛ばされるし、地味が悪いので、耕して二、三年で作物の出来が悪くなるそうです。
 ◎ 三年でですか。
 宮脇 場所にもよりますけど。土壌の塩分が増えていくこともあるしアルカリ化することもある。そうすると農民は食べられないのでまた移動するわけです。その後は放牧もできない、草も生えなくて荒地が増えてくる。どうやって食べてるのって私も訊いてるんですけど。一昨年、ホロンブイルという、内モンゴルで唯一モンゴルらしい豊かな草原が残ってると言われていたところに行ってきたでしょう。そうしたら定住化政策が進められていて、草原にレンガを山のように持ち込んで、家をとにかくジャンジャン作ってるわけですよ。人々を出来た家に強制的に住まわせて村を作っている。でも何で食べてるのって訊くと、村の側には少し畑が出来ている。そして、男だけ放牧に出るんですって。つまり家族全員で出かけるというのはやめさせた。男が単身赴任で羊を連れて出て行くと言ってました。それからカシミヤが今非常に増えてますね。カシミヤというのは山羊から取るんですが、最も金になる。すぐお金になるので山羊を増やすんですが、山羊の方が羊よりも貪欲で草を根こそぎ食べてしまうので、山羊が増えると草原は荒れるっていうんですね。山羊と羊は一緒に放牧するんですけれども、近頃山羊の割合が非常に増えてきている。だから日本でカシミヤ製品がどんどん安くなってますでしょう、あれは中国が売ってるというか山のように作っているわけです。だから私もカシミヤが安いのはいいけど、こんなに安いなんて、かわいそうに、もっと高くして減らしてほしいなと思うんですよ。それで中国のカシミヤが安くなると、今度はモンゴル国でも彼らの唯一の輸出品であるカシミヤが売れなくなるので、安くするためにモンゴルの方でもカシミヤ山羊を増やし始めて、それで草原が非常に荒れてきています。でもまあ、世界中で唯一遊牧が残っているのはモンゴルだということは確かでしょうね。
 ◎ でもそうして見ますと人口も少ないでしょうから、モンゴルに未来はないみたいなことになりかねませんね。
 岡田 内モンゴルじゃ、ないです。
 宮脇 内モンゴルでは中国人が非常に奥地まで町を作って、工場を作って入り込んでます。モンゴルの自治区とは言っても…。
 岡田 もうあれは中国人が主体ですよ。

今後のモンゴル国

 岡田 そうするとモンゴル国がどうなるかというの、これが疑問だね。今のところわかりませんね。
 宮脇 でも中国になりたくないというのはもう全員の気持ですから、中国には絶対に支配されたくない。
 ◎ ただ新しい産業を作らないといけないですからね。
 岡田 それがね、人間が少ないから、産業を作るにしても新しい人口を増やす方法がないんですね。さあどうするかね。
 ◎ モンゴル人自身の危機感は?
 岡田 危機感に襲われていることは事実ですけど、たいていの人はそんなこと考えてる余裕なんかないんです。
 宮脇 今日生きていくのが精一杯ということで。
 岡田 で、我々が心配してるんだよ。ただ一つ方法があるとすれば、モンゴル人が日本に来て、そしてせっせと故郷に送金するんです、それしかないです。
 宮脇 今でも日本のODAの援助でやっとやっているのです。
 岡田 国家予算の半分以上は日本の援助です。
 宮脇 そもそもほんとに予算規模が小さいんですけれども、外国に輸出できる産業がないんです。
 ◎ でもそうなったら国家とは言い難いのでは?
 宮脇 でもそれを言うと世界中でいったいどれくらいの国がちゃんと自前で動くのかということになってしまいます。アフリカ諸国や中南米とか、今は国連の加盟国で何パーセントが本当にちゃんと回ってるかということになるから、まあ日本としては、モンゴル国ぐらい抱えてても困らない。人口たった二四〇万なので、その予算ぐらい面倒見られるわけですよ、中国のことを考えたら。中国の一三億に援助しても消えちゃうわけでしょう、どこに行ったかわからないような有様ですよね、環境破壊もひどいし。それでモンゴルの環境破壊を食い止めて、モンゴルをとにかく親日国として維持するということは、非常に意味のあることです。とにかく人口が少ないので援助額と言ったって、向こうにとっては莫大ですけど、日本にとってはそんなに大きな金額にはならない。モンゴル国民が元気であそこにいる、ということの安全性というか、意義が非常に大きいですよね。ロシアとうまくやっていくためにも、モンゴルが橋渡しになってくれる可能性というのが大きいです。モンゴル人は今でもほとんどみんなロシア語ができますし、それで日本に対しては顔も同じ、いろんな意味で非常に親日的になってきています。しかもロシア人自身がシベリアに中国人が潜り込むことを非常に恐れてます。人口比が全然違ってるでしょう。で、ロシアは日本とうまくやっていきたい、手を組みたいと思っているようです。そういう意味でも今度は東北アジアの共存という形を取ると、その場合に国はやっぱりいくつもある方がいいじゃないですか。ちゃんとモンゴルが独立国でいてくれると、二国間じゃなくて多国間協力と安全保障になる、そういうようなことを日本は今考えているみたいです。
 ○ モンゴル国自身は?
 宮脇 モンゴル国はもうひたすら日本に頼ってます。中国に対抗してやっていくためには日本が守ってくれる以外にないですから。だって日本が手を離したら、あっと言う間にあそこは全部中国領になってしまいます。
 岡田 そんなこととは露知らなかったでしょう。(笑)
 ◎ でも、モンゴルというのはちゃんとした一国だと思える。日本の援助がそんなにいってるとは思ってなかった。

モンゴル好きな日本人

 ○ 先ほどチンギス・ハーンの話の折に「日本人はモンゴルが好き」とおっしゃっておいででしたが、日本にはモンゴルを支援するグループがずいぶん多いそうですね。
 宮脇 はい、ボランティア団体が正式にはいくつだったかな、百ぐらいはあるはずなんですよ。
 岡田 忘れちゃった、百ぐらいはある。
 ○ 百ぐらい? そんなにあるんですか。
 岡田 あるんです。
 宮脇 前の駐モンゴル大使の花田大使に昨日会ったのですが、例えば瀋陽、かつての奉天は、日本と非常に縁の深いところにもかかわらず、最近やっと日本との交流団体が一つ出来たんですって。なぜモンゴルだけこんなに多いのだろう。こんな多い必要は全然ないのに、っておっしゃるんですよね。百というのは最初に聞いた時の数なので、今はそんなにないかもしれません。なんだかモンゴルだと夢がかなうみたいな気がするらしいですね、いい大人がね。あるいは自分たちが日本でできなかったことができるみたいな気がするのでしょう。
 ◎ でもモンゴルの話をしてると少し浮世離れしてるから、世知辛い日本ではやっぱりモンゴルの話というのはいいのかもしれませんね。
 宮脇 そう、私が今、モンゴル国の現実という怖い話をしても、やっぱり自分と関係ないですもんね。遠いところの感じしますものね。気持が自由になる、日本からどっか行っちゃうという。
 ○ 日本人がチンギス・ハーンが好きだという。考えてみたら源義経を「ジンギスカン」にしてしまうという発想が出てくるのも、やっぱり「ジンギスカン」が好きなんですよね、日本人て。
 宮脇 嫌いだったら出ないですね。しかも孫に攻められてるにもかかわらず好きだというのね。
 ○ 今年(二○○二年)は日本・モンゴル国交樹立三十周年で、先日、NHKがモンゴルをずーっとテレビで特集してました。丸ごとモンゴルで。
 宮脇 みんな好きなんですね、やっぱり絵になる。日本とあんまり違うからですね。日本にない景色、日本にいては味わえない気分。夢心地になるんですよ。「いいなあ、いっぺんモンゴル行ってみたいな」って誰でも言う。
 ○ 日本で、今活躍しているモンゴルの方たちがずいぶんいらっしゃいますね。
 宮脇 モンゴル人力士は今三三人いるそうです。旭鷲山、旭天鳳、朝青龍など、今の日本人で知らない人はいないんじゃないですか。顔立ちが日本人と似ているからお相撲さんになっても違和感が全然ありませんものね。しかもモンゴル人はもともと言葉の才能がある上に、モンゴル語の語順は日本語とほとんど同じで「てにをは」に当たる言葉もあるし、日本語より母音や子音が多いので、みんな日本語を本当に上手に話しますよね。彼らの存在が、日本人がモンゴルに興味を持つきっかけになってくれればいいな、とは思いますけど、歴史も違うし、文化的背景も日本と同じではないということに、日本人がだんだん気がついていってほしいですね。
 お相撲さん以外にも、モンゴル国からも内モンゴルからも日本に留学しているモンゴル人は非常に増えています。
 その中でも有名な歌手のオユンナは、少女の頃一九九○年末のNHK紅白歌合戦に参加したのを、覚えていらっしゃるかしら。彼女はその後、名古屋の高校に留学してさらに音楽大学を卒業し、日本で歌手活動を続けていますけど、同時にウランバートルに児童基金を創設し、孤児院や学校経営などにも力を尽くしています。モンゴルの幼なじみと結婚して男の子を産んだ後も、日本で子育てをしながら、二○○一年四月からは名古屋大学の大学院に入って環境問題を勉強しています。モンゴル国の将来に必要だからって。やっぱり若い優秀な人間こそ国の宝ですよね。

『モンゴルの歴史』『蒙古源流』

 ○ 宮脇先生、先頃刊行の『モンゴルの歴史』について、これから読んでみようという読者の方たちに何か一言、お願いします。
 宮脇 この本は「モンゴルの歴史」と題していますけど、紀元前一○○○年の遊牧騎馬民の誕生から二○○○年のモンゴル国まで、中央ユーラシア草原で活躍した遊牧民の通史です。国境がまだなかった時代に遊牧民が移動した先まで追いかけて説明しています。国境の内側だけの国史でなく、世界史の一部になるようにと心がけました。モンゴルについて講義をするとき必ず質問される、騎馬民族説や源義経伝説や蒙古斑やモンゴロイドなどについても、わかりやすく説明しています。日本人が大陸に出ていった二十世紀前半についても、なるべくわかりやすく、公平になるように書いたつもりです。百年におよぶ伝統のある日本のモンゴル研究の成果をすべて取り入れ、私自身の専門のモンゴル帝国時代以後を詳しく説明して、モンゴルのことだったらいちおう何でも書いてあるようにしましたので、ちょっと詰め込みすぎになったかも知れません。でも、今日お話ししましたように、現地のモンゴルではこういう本は決して刊行されないでしょう。馴染みのない人名や地名が多いのでちょっと大変かもしれませんが、私が作った系図と地図を見ながら、歴史探索を楽しんで頂けたら嬉しいです。そうして、モンゴルがこれまで歩んできた本当の姿を知って頂きたいと思います。
 ○ 岡田先生には近く弊社から『蒙古源流』をお出し頂きます。先生、この貴重なご本につきまして、少しご紹介をお願いできますでしょうか?
 岡田 『蒙古源流』というのは、チンギス・ハーンの子孫の一人、モンゴル・オルドス部の貴族で、名はサガン、尊称をエルケ・セチェン・ホンタイジという人が、一六六二年(清の康煕元年)にモンゴル語で書いた世界史です。モンゴル語の題名は『エルデニイン・トブチ』といい、「宝石の綱要」という意味ですが、清朝の宮廷で満洲語に訳され、それから漢文に重訳されて『蒙古源流』という題がついたので、日本ではこの題のほうでよく知られています。しかし不正確な漢訳ばかりが流通して、日本語の翻訳は、これまで一つもありませんでした。私は一九五九年、二十八歳でアメリカのワシントン大学に留学して、ニコラス・ポッペ先生について『蒙古源流』を読み、いつかかならず日本語訳を出そうと心に誓いました。それから四十余年、七十歳を越えた今になって、心の約束を果たせるのは、ほんとうにうれしいことです。
 この『蒙古源流』の構成を説明しますと、最初にあるのは宇宙の起源で、次が人類の発生です。天人が地上の食物をむさぼって堕落し、男女の性別が分かれます。田を作って稲を植えて米を食い、田を作る土地を奪い合って争います。そこに現れて公平な裁きで争いを鎮めた人が人類最初の王者に選挙される。この王の子孫がインドの王統です。
 インドの王統からチベットに王統が伝わり、チベットからモンゴルに王統が伝わります。モンゴルの王統にチンギス・ハーンが誕生し世界を征服しますが、そのなかの金帝国を滅ぼすくだりには、漢の高祖から金までの中国の王統の叙述があります。物語はフビライ・ハーンにはじまる元朝の歴代のハーンたちの治世に移り、トゴン・テムル・ハーンが中国を失ってモンゴル高原に帰るくだりが詳しく叙述されます。
 それからフビライの後裔のモンゴルの王統と、反フビライ家のオイラト族の抗争の物語が語られ、フビライ家でただ一人生き残ったバト・モンケ・ダヤン・ハーンが現れて、王統を再興します。その三人目の息子の子孫がオルドス部族になり、その末裔が著者のサガンです。一方、ダヤン・ハーンの長男の子孫に伝わったモンゴルの王統は、最後のリンダン・ハーンがチベット遠征に出て死んだあと、昔チンギス・ハーンに滅ぼされた金帝国の末裔の満洲人に伝わります。ホンタイジは大清皇帝を名乗り、ここから満洲の王統が始まります。清朝の順治帝は、南方の中国人、西方のチベット人・オイラト人、東方の高麗人、中央の満洲人・モンゴル人を統合し、正統の政権を再び建てました。こうして『蒙古源流』の世界史は、順治帝の息子の康煕帝の即位で終わるわけです。
 この『蒙古源流』は、昔から歴史学だけでなく、モンゴル文学の傑作としてもてはやされてきましたが、内容がむずかしくて、日本語への翻訳はひとつも出ていませんでした。こんどデ・ラケヴィルツの原文の校訂本が出たので、私の翻訳が可能になったわけです。これをもってポッペ先生への孝行が果たせるのは、私の最良の喜びです。
 ○ 本日は、お二人に日本とモンゴルの歴史を語っていただきながら、日本の人たちが今どう考えなければいけないか、ということを実感させていただける大変貴重なお話を伺うことができました。
 岡田先生、宮脇先生、ありがとうございました。


Copyright [C] 2007 Office Okada-Miyawaki, All rights reserved.