『チンギス・ハーン』増訂版あとがき
本書『チンギス・ハーン』の原型は、シリーズ「中国の英傑」の第九冊として、昭和六十一年(一九八六年)十二月、集英社から刊行されたが、その後絶版となっていたものである。ソ連におけるペレストロイカの進行の影響で、当時のモンゴル人民共和国でも一九八九年末に民主化運動が始まって、共産主義国以外の外国との交流も自由となり、それに伴って日本でも、モンゴルに対する一般の関心と興味が高まり、いわゆるモンゴル・ブーム現象が起こった。そうなると当然、モンゴルの創立者チンギス・ハーンと、モンゴルの歴史についてもっとよく知りたくなってくる。そのため、チンギス・ハーンの人間像と、モンゴル帝国の成立の事情をを分かりやすく説いた集英社版は、手ごろな参考資料とされて、需要が多くなったが、絶版のため入手は困難であった。このたび幸いにも、朝日文庫の児玉哲秀編集長から要請があり、集英社版に大幅の増補改訂を加えたものを、朝日新聞社から刊行できることになった。
増補の要点は、チンギス・ハーン以後のモンゴル帝国と、現代に至るチンギス・ハーンの子孫たちの活躍を、かなり詳しく叙述したことである。集英社版では、「中国の英傑」というシリーズの性質上、チンギス・ハーン個人の性格と事跡に叙述の焦点をしぼった。それに伴って、チンギス・ハーンの出現の背景となる祖先たちの系譜や、モンゴル人の登場以前の遊牧帝国についての説明は詳しくなったが、チンギス・ハーン以後のモンゴル帝国とモンゴル人の歴史については、かえって簡略であった。この点に鑑み、この朝日文庫版では、第四章「遊牧世界の夜明け」のあとに、新たに第五章「チンギス・ハーンの子孫たち」と、第六章「モンゴル高原のハーンたち」を書き加え、集英社版の第五章であった「神となったチンギス・ハーン」を第七章に繰り下げて、「現代のチンギス・ハーン」と改題し、モンゴル人民共和国が一九九二年二月にモンゴル国と改名するまでの経緯を書き加えた。その結果、この増訂版の分量は、集英社版のほぼ一・五倍となった。今回増補した部分には、宮脇淳子氏の最新の研究成果を利用させて頂いた箇所がある。記して謝意を表する。
削除した部分もある。集英社版の第五章のなかでは、チンギス・ハーンの征服が近代資本主義の時代の扉を開けたことを説いていたが、この増訂版にはそれに当たる部分はない。これは、資本主義経済が華北から地中海世界へ伝播したこと自体は、チンギス・ハーンのモンゴル帝国のおかげであったけれども、その資本主義経済が成長して世界をおおうに至ったことは、モンゴル帝国の外側に取り残された海洋国家で、大陸国家に対抗して起こったことであり、チンギス・ハーンとは直接の関係はないからである。そういう観点から、この増訂版ではその部分を削除したが、同じ趣旨のことは拙著『世界史の誕生』(筑摩書房、一九九二年五月)の第六章「モンゴル帝国は世界を創る」でも述べておいたから、興味をお持ちの向きは参照せられたい。
一九九三年十月二日
岡 田 英 弘