『現代中国と日本』あとがき
私の生い立ちには、これといって特に中国との深い縁はない。強いて言えば、曾祖父が漢学者だったことぐらいである。
私の曾祖父、素山・岡田寛太郎(一八二一〜一八九一年)は阿波の国徳島の人で、蜂須賀侯のお抱え儒者だったという。祖父・岡田晋(一八六一〜一九三六年)は神戸の開業医で、父・岡田正弘(一九〇〇〜一九九三年、薬理学専攻、東京医科歯科大学教授・学長、昭和大学歯学部長、日本学士院会員)はその末っ子の三男に生まれた。
父は東京の第一高等学校に在学中、講演に来た鴎外・森林太郎(一八六二〜一九二二年)に一度だけ会ったことがある。医学と文学の両道を極めた森鴎外に傾倒した父は、自分も東京帝国大学医学部に進むかたわら、漢籍と、英・独・仏文の文学書、哲学書を耽読した。薬理学教授・林春雄(一八七四〜一九五二年、東大医学部長、公衆衛生院長、伝染病研究所長、貴族院議員)は、自分の姪を父にめあわせた。それが私の母・梅子(一九〇四年生まれ)である。
私の母方の曾祖父・二宮厳橿(一八三二〜一八九四年)は尾張の国瀬戸の人で、伊勢神宮の神官、神宮皇学館教頭となった。その長男が私の祖父・二宮五十槻(一八五七〜一九〇五年)、次男が林春雄である。二宮五十槻は陸軍工兵大佐で、日露戦争に工兵第十二大隊長として出征、奉天の会戦で戦死し、靖国神社に祀られている。私の母は、その三女である。私の一族でアジア大陸に直接関係を持ったのは、この母方の祖父だけである。
私は一九三一年一月二十四日、東京・本郷に生まれた。私の生まれた曙町の家は、森鴎外の観潮楼に近く、鴎外が建てた借家で、鴎外の実妹・小金井喜美子が差配をしていた。私は満洲事変の年に生まれ、一九三七年、支那事変の年に小学校に入り、東京・九段の暁星中学校三年生の一九四五年に大東亜戦争が終わった。学校が戦災で焼失したので、成蹊高等学校に移り、一九五〇年に理科乙類を卒業して、東京大学文学部東洋史学科に入った直後に朝鮮戦争が起こった。
曾祖父の血のせいか、父の感化か、私はもともと漢籍が好きで、失業覚悟で選んだ東洋史学の道だったから、なるべく不人気な分野を志して、朝鮮史で一九五三年に卒業し、清朝建国期の満洲文の年代記『満文老档』の講読グループに加わった。この仕事は一九五七年の日本学士院賞を受けた。私はまだ二十六歳だった。その二年後、父が「硬組織の研究」で日本学士院賞を受けた。
私が朝鮮史・満洲史の研究から、中国史の研究に回帰したのには、小さい頃からの漢籍好きのほかに、三つの理由がある。その第一は、アメリカ・シアトルのワシントン大学で、ニコラス・ポッペ先生(一八九七〜一九九一年)についてモンゴル学を学んだことである。モンゴル人も、満洲人も、ともに中国を支配した人々なので、その立場から中国史を見直すと、漢文史料がいかに史実を歪曲しているかがはっきり分かる。第二は、満洲語文献の調査にたびたび訪れた台湾での見聞である。ここで、日本化した台湾人を支配している、中華民国の中国人の生態に触れて、漢文文献には決して現れない中国の本質を知ることができた。
第三は、一九七一年九月の林彪事件である。このとき毛沢東の暗殺に失敗して、北京を脱出した林彪元帥は、モンゴルで墜死したが、日本のある大新聞はそれから一年近くも事件を否認し続けた。この現象に感興を覚えた私は、「毛沢東、ついに林彪に勝つ」(『世界経済』一九七二年一月号)を書き、人民解放軍の人脈をたどって中国現代史を解明してみせた。これが私が現代中国の研究に踏み込むきっかけとなった。
本書『現代中国と日本』は、日本がいかに大きな影響を中国に与え、現代中国を創り出したか、その歴史を明らかにした私の文章をまとめたものである。その序章「現代中国は日本が生んだ」の原型は、『中央公論』一九八一年四月号に掲載した「中国病に根本療法はあるのか」だが、収録に当たって大幅に改訂を加え、その後の中国情勢を追記した。
第一部「中国人の日本人観」に収める四篇の初出は次の通りである。
「片思い・日本人の中国好き」(『文化会議』一九七九年三月号)
「中国人の日本観」(『諸君!』一九九〇年三月号)
「東アジアにおける日本人のイメージ」(日本文化会議編『国際誤解と日本人』、三修社、 一九八〇年十二月)
「外国人の日本人観――国際誤解の構造」(日本文化会議編『国際誤解の構造』、PHP研 究所、一九七九年九月)
第二部「日本化した中国人群像」には、私が一九七九、一九八〇の両年に『中央公論』に掲載した一連の口語体の論文を、多少の改訂を加えて収める。
「魯迅のなかの日本人」(『中央公論』一九七九年七月号)
「中国人はなぜ日本に無関心なのか――戴季陶の『日本論』」(『中央公論』一九八〇年三月号)
「日本を愛した中国人――陶晶孫の生涯と郭沫若」(『中央公論』一九八〇年十二月号)
「陸士同期留学生の中国革命――呉禄貞から蒋介石まで」(『中央公論』一九八〇年八月号)
本書に収録する諸篇は、いずれもケ小平が中国の権力を掌握した直後の作品で、日中関係の本質を論じ、当時の日本で一般的だった安易な友好ムードを批判した内容である。今やケ小平はすでに亡い。ここに本書を世に送り、中国の前途を憂うる人々の参考に供するものである。
一九九八年二月
岡 田 英 弘