岡田英弘
宮脇淳子
|
宮脇淳子「『モンゴルの歴史』出版に関する文献探索」
『文献探索2003』(深井人詩編 文献探索研究会発行)掲載
遊牧民であるモンゴル人の歴史を研究してすでに30年になる。なぜモンゴル史に興味を持ったのかというと、日本のような湿潤な農耕地帯とはまったく違う乾いた気候の草原で、土地にしばられずに移動する遊牧民の生活が、自由でロマンティックに見えたからである。私が生まれたのはもちろん戦後だけれども、当時の多くの日本人にとって、記憶の中に閉じこめざるを得なくなった、赤い夕陽が見渡す限りの広野のかなたに沈む「満蒙」への憧憬が、無意識のうちに私に影響したのかもしれない。
この分野の研究に関して、もっとも伝統があると教えられた京都大学文学部東洋史学科に入り、いよいよ憧れのモンゴル史を研究しようとした時、草原の遊牧民に関する文献があまりにも少ないことを知った。遊牧民はつねに移動しているため、家財道具は極端に少ない。長い間、文字記録を貯蔵しておく倉庫もなかったのである。
今回刊行した拙著『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水書房)は、大学入学後30年間、モンゴルに関する文献を探し続け、言葉の勉強をしながら世界中に散らばった史料を読み続けた、その成果ということになる。巻末の参考文献は、私が利用した数多くの文献の中から、もっとも基本的な刊行物と、現在日本の読者が見ることができるものにしぼって挙げた。ここでは、それら以外の希少な文献にめぐりあった経緯について、二つほどお話ししたい。
さて、文献が少ないからといって、遊牧民が世界史に果たした役割が小さかった、ということにはならない。例えば13世紀にチンギス・ハーンが建てたモンゴル帝国は、東は日本海から西はヨーロッパに至るユーラシア大陸の大部分を統一し、それまで互いに接触のなかった中国文明と地中海文明を結びつけた。これによって歴史上はじめて、旧大陸がひとつの世界と認識されるようになり、ヨーロッパ人がアジアについての知識を得たのである。しかし、支配者であるモンゴル人自身がほとんど記録を残さなかったために、モンゴル帝国は一世紀あまりで崩壊し、その後の世界に何の影響も与えなかったかのように考えられてきた。遊牧民について記録を残したのは、かれらに支配された定住農耕地帯の人びとで、大体は軍事とは無縁の文官や僧侶たちだった。その記録は断片的であり、歪曲があるのは当然である。一方の遊牧民は、自らの存在を正当化するための歴史を書こうとせず、父祖以来の系譜だけを持って、遊牧生活に戻っていった。
あんなに少ない人数でどうやって世界帝国を築いたか、定住都市もなくどうやって国家を運営したか、広い草原に散在していた国民をまとめる絆は何だったかなど、モンゴル史については解明されていないことばかりだった。京都大学で先生たちに相談するうち、世界的に研究者は少ないが史料はある、という17-18世紀のモンゴル史に行き着いた。
17-18世紀は、モンゴル史の転換点である。それまで、モンゴル帝国の後裔の遊牧騎馬民だけの世界だった中央ユーラシア草原に、東からは満洲人の建てた清朝、西からは帝政ロシアが領土を拡大してくる。すでに騎馬の軍事力よりも火器の力が上回るようになり、人口の増えた農民が草原に進出してきた。異民族の支配下に入ることを余儀なくされ、父祖伝来の生活を失うことになったモンゴル人は、この時はじめて、チンギス・ハーンから自分につながる系譜や、祖先の武勇を語った伝承を書き留める必要に迫られた。そういうわけで、17-18世紀に、遊牧民自身の手になる歴史書が一斉に誕生した。
一方、草原の遊牧民を支配するようになった清朝とロシアでも、遊牧民の社会に関する詳細な記録が誕生した。東方で清朝を建てた満洲人は、モンゴル帝国の家来の出身で、遠くのシリアで生まれたアラム文字に由来するモンゴル文字を借用して満洲文字を作った。満洲人は17世紀前半、万里の長城の北の瀋陽で、その地の漢人と自分たち満洲人とさらにモンゴル人を同盟者として清朝を建国したので、清朝の公用語は20世紀初めまで、満洲語・漢語・モンゴル語の三言語だった。三つの言語で書かれた清朝の公式文書は、同じ内容でも表現が微妙に異なっている。また、西方のロシアでは、シベリアに進出したコサックや軍人官吏が、現地で接触した遊牧民についてのさまざまな報告をモスクワに送った。それらの古文書が、公式文献として保管されている。
このように、17-18世紀のモンゴル史は、珍しく史料の多い時代だということはわかったが、なぜ世界的に研究者が少ないか、というと、それらの史料が全く異なった言語で書かれているからであった。縦書きの中期モンゴル語、『史記』等の古典とは違う文体の清朝時代の漢文、現在は話し手のいない満洲語、正書法確立以前の古いロシア語と、研究者の少ない言語ばかりである。しかもモンゴル人がチベット仏教徒になった時代であるため、チベット語史料まで存在することがわかった。大事な文献は世界各地で刊行されているし、日本の大学図書館にも所蔵されている。
京都大学東洋史学科では、もちろん漢文講読を学んだ。同時にモンゴル語とロシア語の勉強も始めた。けれども、読みたい史料はどれも難しく、学生が簡単に読めるわけがない。幸いなことに、読まなければいけない文献の数はそんなに多くなく、目的がはっきりしていたから、例えばロシア語訳のあるモンゴル語史料などを、両方を勉強しながら読んだ。ロシア古文書も、専門の先生の部屋をノックして、「これでいいですか?」と尋ねたりした。やがて、狭い東洋史の世界だから、向こう見ずな研究をしている学生がいる、ということが知れて、大阪大学大学院時代には、日本で一番古典モンゴル語と満洲語が読める東京の先生から、教えてやるから上京しろ、と言ってもらった(実は、現在は私の夫の岡田英弘である)。上京すると、古いチベット文献の権威である東京大学の山口瑞鳳先生から、チベット語を教えてやるからもぐりで授業に来るように、と誘ってもらった。
一つの言葉を勉強して、なんとか辞書を引きながら、読みたい文献を読めるようになるまで三年はかかる。だから、これらの言葉の基礎だけ学んだ段階で、すでに30歳だった。話せるようになるわけではない。古い文献を辞書を引きながら読める、というだけである。
17-18世紀モンゴル史研究をはじめてまもなく、大きな問題にぶつかった。17世紀後半に突然歴史の表舞台に登場して、中央ユーラシア草原を席巻し、18世紀半ばに清朝に滅ぼされた「最後の遊牧帝国ジューンガル」と呼ばれるモンゴル系遊牧民の国家があった。これについて最初に研究をしたのは、ロシア帝国のお雇い外国人学者のドイツ人だったが、それ以後も、ロシア人やヨーロッパ人の研究が有名だった。ところが、18世紀初頭に書かれたモンゴル語文献を読んでいるうち、それまで権威とされてきたソ連人学者の著書が、自国に都合のいいようにモンゴル史料を歪曲している部分を見つけてしまった。ドイツ人やロシア人は、漢文や満洲語を読まなかったので、草原に広がったモンゴル系遊牧民の帝国を、西方と接触した一部分だけ見て、ロシア帝国との関係だけで解釈したのである。
私は欧米の先行研究を読んだ上で、他のモンゴル部族や清朝やチベットとの関係について、東方に残った一次史料を調べ続けた。その結果、「最後の遊牧帝国ジューンガル」は、東は今のモンゴル国から、西はヴォルガ河畔まで、北はバイカル湖畔から、南はチベットまで広がった、モンゴル系遊牧民のゆるやかな部族連合であったことが明らかになった。遠く離れて暮らす遊牧部族長どうしが、世代が変わるたびに婚姻を結ぶことで同盟関係を維持していたのである。しかも、かれらは全員チベット仏教徒だった。その帝国は18世紀半ばに滅びたが、後裔は今のロシア連邦カルムィク共和国、南シベリアのブリヤート共和国、トヴァ共和国、中国の新疆ウイグル自治区、青海省、内モンゴル自治区、そしてモンゴル国西部に分かれて暮らしている。しかし、独立を失って久しく、現在はその地域の少数民族でしかないため、かれらは自分たちの歴史をほとんど知らない。
私の研究は、幸い、師であり夫になった岡田英弘(現在、東京外国語大学名誉教授)の援助で、1978年以来、ほぼ毎年国際学会で英語で報告する機会にめぐまれた。1986年、当時はまだソ連領だったタシュケントで開かれた国際アルタイ学会で、私がソ連の研究を批判した時、モンゴルから参加していた学者に大いに喜ばれた。これ以来、東欧圏の学者たちに信頼されるようになったが、実は当のソ連の学者たちの間でも、この時私の研究が評判になったということを、1991年ソ連邦が崩壊したあとで、知らされた。
私がジューンガル史を研究していることが世界的に知られるようになって、希少な文献が、あちらから私の手元にやってきた。一つは、1917年にロシアから独立したフィンランドの、初代駐日公使だったラムステット(トルコ語・モンゴル語・満洲語をアルタイ語族と名付け、これらを比較研究するアルタイ学の基礎を築いた、偉大な言語学者である)が、若い頃にヴォルガ河畔で調査した際、自ら筆写したカルムィク王侯の系図である。
17世紀前半、ロシア史料でカルムィクと呼ばれるジューンガルの同族の遊牧民は、西方に遊牧地を拡大して、まだロシア領ではなかったヴォルガ河畔に落ち着いた。ところが、18世紀にヴォルガ河畔にロシア人やドイツ人の農民が入植し、ロシアの支配が強化されたため、ジューンガルが清朝に滅ぼされて人口が激減した中央アジアの故郷に、1771年その大部分は帰還した。その冬は暖かくヴォルガ河が凍らなかったので、西岸の遊牧民は取り残された。その子孫が今でもヴォルガ河畔に住んでいる。つまり、ヴォルガ河畔のカルムィク人と、モンゴル国西部や中国新疆北部のモンゴル人は同族なのである。
故ラムステットは、ヴォルガ河畔からモンゴル国まで、モンゴル人の言語を調査したが、かれの調査記録は、その時までに、この系図を残してすべて弟子たちが整理と研究を終えていた。国際アルタイ学会で知り合った、ラムステットの弟子のフィン・ウゴル学会会長の先生が、私にこの系図を研究して欲しいとコピーを送ってきてくれた。若い頃のラムステットが自ら写した、西モンゴルの独特の縦文字が果たして正確であるかどうか、先生は心配していた。幸い、ヴォルガ河畔に残った系図と、私の手元にあった満洲語で書かれたモンゴル人の系図には、呼応する部分が多く見つかった。両方とも祖先の名が同じであり、ヴォルガ河畔の系図の一部分の人名が線で囲まれ、かれらは故郷に戻った、と但し書きがあった。その人びとの子孫の名が、東方の清朝史料に詳細に残っていたのである。フィンランド人のその先生は、日本の女性研究者が、最後まで研究されずに残った資料を解明してくれたのも、ラムステットと日本との深い縁のおかげだと喜んでくださった。
この系図の研究報告は、ヘルシンキで刊行されている、ラムステットが創立したフィン・ウゴル学会の機関誌に掲載された。そうすると、次は、私が行ったこともないロシア連邦のタタルスタンの首都カザンにジューンガルの系図がある、という報せが届いた。これを私に知らせてくれたのは、カルムィク共和国の首都エリスタの大学を卒業したあと、家族でアメリカに移住し、シカゴ大学で学位を取得したロシア生まれの研究者である。かれは、ヴォルガ河畔のカルムィク史を、主としてロシア語とトルコ語を利用して研究している。私が、東方の史料を利用して同時代の中央アジア史を研究しているので、お互いに助け合って、文献の少ない草原の遊牧民に、西方と東方から光をあてようと約束した、世界的に数少ない同業者なのである。
カザンに調査に行くのは厄介だ、と思っているうち、シカゴで開かれたロシア史学会で知り合ったカザン大学の先生が、系図のコピーを作って私に送って寄越した。系図の人名は他のモンゴル語史料で馴染みがあるので困難なく読めたが、注記してある手書きの古いロシア語の意味がわからない。結局、またもや国際学会で助けを求めたところ、ブルガリアで研究しているモンゴル学者が、この古いロシア語を英語に訳して送ってきてくれた。
ジューンガルの系図と言われていた三枚の系図の中の一枚は、ジューンガルが清朝に滅ぼされた時、清に反乱を企て、ロシアに亡命して、そこで天然痘で死んだ、モンゴルでは英雄として名高い王侯、ホイト部のアムルサナーの一族の系図だった。ホイト部の系図は、満洲語文献の中にはこれまで見つかっていない。カザン大学に残っていたホイト部の系図は、アムルサナーの名前だけ二重に囲んであった。アムルサナーがロシアに亡命した時、持って行ったものの写しと思われる。ホイト部の系図の他、ジューンガル部とトルグート部の系図、併せて三枚の系図はすべて、中央アジアの草原に伝統的な、円の中に人名を書いた系図だったが、人名は古いロシア文字で写され、アクセント記号が付いていた。
モンゴル文字にはアクセント記号はない。モンゴル語の系図をロシア文字に写したと思われるのに、なぜアクセント記号が付いているのか、私にはわからなかった。次の国際学会で報告したところ、今度はハンガリーの著名な言語学者が、この問題について解明してくれた。つまり、モンゴル文字を読める人が系図の人名を読み上げ、これを聞いて、ロシア語が書ける人が、読み上げられたアクセントを付けて、しかも18世紀当時のカザン・タタール特有のロシア文字の綴り方で書き取ったのである、ということだった。
遊牧民であるモンゴル人の歴史研究は、文献が少なく、困難な分野である。土地にしばられずに移動する遊牧民の生活は、最初に私が考えていたような自由な生活ではなかったけれども、その歴史研究に関する文献調査は、国境にしばられず、広い世界を自由に移動するロマンティックなものだったと言える。モンゴル研究に従事しているおかげで、世界中に友だちができたのである。
|