『モンゴルの歴史』あとがき(改訂版)
本書は「モンゴルの歴史」という題名だが、実際には、紀元前一○○○年に中央ユーラシア草原に遊牧騎馬民が誕生してから、二十世紀末のモンゴル系民族の現状までを、通史として一冊におさめた構成になっている。本書のもととなったのは、一九九五年十月から二○○○年三月までの五年間、私が朝日カルチャーセンター・新宿で講義した「遊牧文明の歴史」シリーズ、計一五○時間である。
「遊牧」と「文明」という、一見ふさわしくなさそうなことばを組み合わせたのには、特別の理由がある。二時間の講義を五回ずつ、三ヶ月ごとに副題を変えてあらたに受講生を募集するたびに、なぜ「遊牧文明」としたのか理由を説明してきた。
人によって定義はさまざまだと思うけれど、私は「文明」を、時代や地域や特定の集団(いまのことばだと「民族」)を越えて伝播することが可能な、ひとつのシステムだと定義する。これに対して「文化」は、ある特定の土地や人びとに固有のものであると定義する。ちかごろ「アメリカ文明」と呼ぶのは、アメリカ型の生活の仕方や社会のしくみが、全世界の人びとによってまねされているからではないか。
ふつう「農耕文明」と呼ぶけれど、「農民」や「農業」自体が文明なのではなく、農耕地帯に発生した都市のしくみや宗教や文字などが文明なのである。「遊牧民」や「遊牧」はそのままでは文明ではないけれども、草原に発生した遊牧騎馬民の連合のしかたや軍隊のしくみは、紀元前の西のスキタイ、東の匈奴以来、モンゴル帝国をへて十八世紀まで、時代も地域も民族も交代しながら、ほとんどそのまま継承された。これを「遊牧文明」と呼び、その歴史のながれを明らかにしようというのが、朝日カルチャーセンターでの連続講義の試みだった。遊牧騎馬民が地球上から姿を消そうとしている二十世紀末に、かれらが世界史に果たした役割を少しでも明らかにしたかったのだ。
この間一九九七年四月から、東京外国語大学の非常勤講師として、通年で「モンゴル史」を講義するようになった。正式の講義題目は「アジア地域研究T」で、どの学科の学生が受講しても単位となるのだが、受講生のほとんどがモンゴル語科の学生で、ときどきロシア語科、朝鮮語科、トルコ語科の学生、さらに日本語科に留学しているモンゴル人学生が加わる。最初は七世紀から十八世紀までのモンゴル系民族史を講義するつもりだったのだけれど、モンゴル語科の学生たちが、実は現代モンゴル語を中心に学んでいて、古い時代の遊牧民の歴史は私の授業だけで知識を得るという。それで、ここでも紀元前の遊牧騎馬民の誕生から講義をすることにした。
中国内蒙古自治区から日本に留学してくるモンゴル人は、二十世紀前半の満洲国興安省や内モンゴル自治運動のことを知りたいというが、いまの日本では大学にそのような専門課程はない。それで、日本人だけではなくモンゴル人留学生にも読んでもらいたいと思って、本書にはその部分も加えた。
ところで、モンゴル国からやってきて、一九九○年末のNHK紅白歌合戦に参加した少女歌手オユンナを覚えているだろうか。彼女はその後日本に留学し、名古屋の音楽大学を卒業して、二○○一年四月、名古屋大学大学院環境学研究科の修士課程に入った。夫の岡田英弘と私は、そのオユンナを支援するボランティア団体から発展した「日本モンゴル文化協会」の理事だが、オユンナは会うたびに夫と私に、「モンゴルの歴史を何も知らないから、ぜひ教えてください」と言う。モンゴル人民共和国時代、モンゴルでは、ほとんど一九二一年の革命以後の歴史しか教えられなかった。だから、モンゴル国でも利用してもらえるようなモンゴル史にしたい、ということも考えた。
本書第十章で見たように、二十世紀のモンゴル史には、日本が深く関わった。かれらの運命に責任がある、と言ってもいいくらいだ。過ぎてしまったことはしかたがないから、なかったことにしよう、というわけにはいかないだろう。われわれ日本人は歴史を重んじる文化を持っているのだから。では、今後二十一世紀にわれわれは何ができるのかを考えるとき、まず第一に、モンゴル人の歴史を理解し、モンゴル人の置かれた立場を正確に理解することである、と私は思う。草原の遊牧騎馬民は太古からいたのではなく、本書で見てきたように、実は三○○○年の歴史しかない。豊富な馬を乗用に利用した機動力のおかげで、世界史を変える役割を果たした遊牧騎馬民も、十七世紀からあと地球上の人口が爆発的に増加し、農民が草原に移住して遊牧地が減少したため、伝統的な遊牧生活はいまやモンゴル国に残るだけになった。
中華人民共和国の人口が一三億あり、北のモンゴル国にはわずか二三○万人しかいないのだから、その不平等を少し緩和すればどうか、などという、地図を見ながらの空論が、いまのモンゴル人にとってはもっとも恐ろしい思想である。日本の建てた満洲国時代、国内のモンゴル人は八○万人ほどで、総人口の二、三%にすぎなかったが、その生活空間は全土の三分の一以上におよんでいた、という説明を読んだが、その土地は本来モンゴル人の遊牧地で、農耕に不向きな草原だったから、長い歴史時代を通じて遊牧民だけが暮らしてきたのだ。
中華人民共和国では、新疆、甘粛、内蒙古、黒龍江の四省区で、一九八六年から九六年にかけて、一九四万ヘクタールの土地が開墾されたが、その半分がすでに荒れ地になっているという。やみくもに草原を開墾し、面積の減少した草原での家畜数を増やしたため、農業はいうまでもなく、放牧すらできない砂漠になりつつあるのだ。中国のモンゴル族はもはや遊牧民ではない。本当の意味の少数民族になってしまった。
漠北のモンゴル国は中国からはゴビ砂漠をへだてて遠く、満洲のように鉄道も開通しなかったおかげで、農民の移住がおこなわれなかった。実際、モンゴル国の大部分は農業には不向きな環境にある。モンゴル人は建国後も遊牧民の伝統を守り、土を掘り返さないよう、環境に注意して暮らしてきた。しかし、社会主義が行き詰まって民主化がはじまったあと、唯一国際競争力のあるカシミヤを取るための山羊を増やして、草原の劣化が心配されている。相次ぐ雪害も、社会主義時代には首都の大学生や労働者が牧草刈りを手伝い、地方ごとに災害のための備蓄をしていたのが、みな自分のことしか考えなくなったための人災だ、という。すでに環境問題は地球規模の問題であり、モンゴル国の環境が現状のまま維持されることは、全人類にとって意味のあることだと思える。
いまの日本人は、モンゴル人と対等な関係でつきあいながら、世界中で一番モンゴルのことを理解し、モンゴル人を好きな国民だと思う。本書は、モンゴルのことだったら何でも一応のことは書いてあるように、教科書としても利用できるように、モンゴル人の立場からもわかるように、などの希望を一杯つめこんだので、すこし堅い本になったかもしれない。次は、どこかの時代と人物を選んで、モンゴルについてさらに面白い読み物を書きたいと思うので、ご勘弁ください。
最後になったが、岡田英弘の古い友人である刀水書房の桑原迪也社長と、わかりやすい内容にするために、読者の立場にたって熱心に質問してくださった編集の中村文江さんに、心より御礼申し上げる。