『歴史の読み方』あとがき
日本に存在する、あい矛盾した三つの歴史文化
日本には、三つの歴史文化が存在する。西洋史と、東洋史と、日本史である。この三つは、それぞれ独立の伝統があって成立しているものだが、それがたがいに重なり合って、日本人の歴史の認識を混乱させる原因になっている。だいいち、歴史を三本立てにするのは、日本だけのことだ。日本以外では、韓国を除いて、どこにも見つからない。
この三つの歴史文化は、明治の日本人が直面した、西ヨーロッパ・アメリカと、中国と、日本の現実に、それぞれ根源がある。
まず西洋史だが、これはルートヴィヒ・リースがはじめたものだ。リースはドイツ系ユダヤ人、一八六一年の生まれ、西プロイセン出身で、一八八〇年、ベルリン大学に入り、一八八四年、中世イギリス議会制度史の研究で博士号を取得した。この当時、ドイツの偉大な歴史学者レオポルト・フォン・ランケが、ベルリン大学教授だったから、リースもその門下生だったわけだ。
一八八六年(明治十九年)、日本の文部省が「帝国大学令」を公布して、東京大学を帝国大学と改称した。その翌年の一八八七年(明治二十年)、文部省はリースを招聘して、帝国大学の文科大学に「史学科」を開設し、そこでランケ史学を講義させた。当時、リースは二十六歳だった。
それから十五年、四十一歳で一九〇二年(明治三十五年)に帰国するまで、リースは、ドイツなまりの英語で講義し、ヨーロッパの最新の実証史学を、日本に移植するのに功績があった。弟子に、村上直次郎(一八六八―一九六六年)、幸田成友(一八七三―一九五四年)、辻善之助(一八七七―一九五五年)らがある。
リースは、帰国後はベルリン大学講師になり、ついで助教授となり、一九二八年、没した。六十七歳であった。
西洋史の伝統は、紀元前五世紀の「歴史の父」ヘロドトスにはじまる。ヘロドトスは、その本を、つぎのように書きはじめている。
「本書はハリカルナッソス出身のヘロドトスが、人間界の出来事が時の移ろうとともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人の果した偉大な驚嘆すべき事蹟の数々――とりわけて両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情――も、やがて世の人々に知られなくなるのを恐れて、自ら研究調査(historiai)したところを書き述べたものである。」(松平千秋訳)
この本はペルシア戦争について記したもので、ペルシア帝国のそもそものはじめから、紀元前四八〇年のサラミスの海戦で、ペルシア王クセルクセスがギリシア人に敗れて、命からがらアジアに逃げ帰るまでを叙述する。 この本は『ヒストリアイ』と題されているが、これは「研究調査」という意味である。ヘロドトスまでは、「ヒストリア」は「研究調査」という意味しかなかったが、ヘロドトスがこの題名で、世界最初の歴史を書いてから、「歴史」という意味を持つようになったのだ。
ヘロドトスはこれに続けて、つぎのように書いている。
「私はただ、ギリシア人に対する悪業の口火を切った人物であることを私自身がよく知っている、その人物の名をここに挙げ、つづいて人間の住みなす国々(polis)について、その大小にかかわりなく逐一論述しつつ、話を進めてゆきたいと思う。というのも、かつて強大であった国の多くが、今や弱小となり、私の時代に強大であった国も、かつては弱小であったからである。されば人間の幸運が決して不動安定したものでない理りを知る私は、大国も小国もひとしく取り上げて述べてゆきたいと思うのである。」(同上)
これはたいへん、意味深長だ。世界最初の歴史を書くにあたって、歴史の意味を、強大であった国が弱小となり、弱小であった国が強大になることわりを記述することだ、と宣言しているのだ。
これからはじまって、地中海世界や西ヨーロッパ世界で、マケドニア帝国、ローマ帝国、フランク王国を経て、仏・独・英の三強にいたるまで、列国の勢力の消長・交替を記述する歴史が書きつがれて、今日に至っている。ヘロドトスの伝統は、やはり強い。
そのつぎの日本史は、やはりルートヴィヒ・リースと関係がある。
史学科と並んで、帝国大学の文化大学に、日本史を扱う「国史科」が設けられたのは、一八八九年(明治二十二年)である。これに先だって、渡邊洪基帝国大学総長はリースの意見を徴し、リースはこれに答えて詳細に、国史科の課程と運営につき意見を述べている。
もともと、日本史には、七世紀の後半にさかのぼる、古い伝統がある。壬申の乱で大友皇子を倒して、日本天皇となった天武天皇が、六八一年に詔して、帝紀、及び上古の諸事を記し定めさせたのにはじまって、七二〇年、元正天皇のときに『日本書紀』三十巻となって結実した。
これがもとになって、『続日本紀』(七九七年)、『日本後紀』(八四〇年)、『続日本後紀』(八六九年)、『日本文徳天皇実録』(八七九年)、『日本三代実録』(九〇一年)の、いわゆる六国史ができた。
この日本史の建前は、日本は紀元前六六〇年、神武天皇が大和の橿原で即位した時にできたことになっているが、これは、秦の始皇帝が紀元前二二一年、中国をはじめて統一したときよりも、ずっと古い。そういうわけで、日本は中国よりも古い起源があるんだ、と主張しているわけだ。
日本では、それから九世紀近く、韓半島があることさえ知らなかったが、二〇〇年になって、神功皇后が「宝の有る国」新羅があることを察知して、海を渡って遠征に出かけた、ということになっている。
これは日本の歴史の独自性の主張だ。日本は六六八年の建国以来、内では、万世一系の皇統を堅持する一方、外の中国・韓半島に対しては、一貫して独立を守ってきた。この鎖国の伝統が破られたのは、一八七一年(明治四年)、清国とのあいだに締結された日清修好条規がはじめてである。
そういうわけだから、前五世紀のヘロドトスにはじまる西洋史の伝統と、八世紀の『日本書紀』にはじまる日本史の伝統では、まず水と油で、どうにも混じりようがない。このことは、リースが気にしていたようだ。
その証拠に、リースの高弟の村上直次郎が日欧交渉史を専攻、欧文史料を駆使して対外関係史の基礎を確立したとされ、おもな業績に『耶蘇会士日本通信』、『長崎オランダ商館の日記』などの翻訳がある。またおなじくリースの高弟の幸田成友には、『日欧交通史』の著書がある。
その後、史学科、国史科と並んで、中国史を対象とする「漢史科」というものが設置されたらしい。リースの帰国後の一九〇四年(明治三十七年)になって、国史・史学・漢史の三科は新しい「史学科」に統合され、そのなかに「支那史学」と「西洋史」という分野が公認された。その後、一九一〇年(明治四十三年)、支那史学は「東洋史学」と改称された。これで国史、東洋史、西洋史という三つの分野が出そろったわけである。文科大学が文学部と変わり、単一の史学科が三つに分かれて、国史学科・東洋史学科・西洋史学科という、それぞれ独立の学科になるのは、一九一九年(大正八年)からである。ただし現在では、ふたたび統合されて、「歴史文化学科」となり、そのなかに日本史学、東洋史学、西洋史学、考古学、美術史学の五つの専修課程が含まれるようになっている。
さて、中国世界は、地中海世界と並んで、独自の歴史文化を持っている。その「歴史の父」は、紀元前二世紀から一世紀のはじめの、前漢の司馬遷である。
司馬遷は、中国の「正史」の第一である『史記』を書いて、「紀伝体」をはじめた。その第一篇「五帝本紀」では、「天下」(中国)を支配すべき「天命」は、「禅譲」によって伝わるという。ついで夏・殷・周では、天命は「放伐」によって、徳のある者から徳のある者へと伝えられ、やがて秦の始皇帝が紀元前二二一年、中国を統一して最初の皇帝になる。つぎに秦が亡びて、項羽が一時、覇を唱えるが、やがて前漢が起こって、高祖、呂太后、孝文皇帝、孝景皇帝とつづき、とうとう「今上本紀」、すなわち司馬遷の仕えた前漢の武帝に至るまでを記述する。
これはまったく政治史だが、これと対応する「列伝」でもその通りで、本人の容貌・体格はもとより、生没の年月日まで、書いてないことが多い。その代わりに、どの皇帝のどの政策と関係したか、詳細に書いてある。
『史記』の体裁は、やはり紀伝体の班固の『漢書』や、陳寿の『三国志』によって後世に伝えられたが、そのさい、いちばん強調されたのは、その王朝が天命をどうやって受け継いだかだった。だから『三国志』では、天命は後漢から魏が受け継いだことになっている。蜀でも呉でもない。これは魏から天命を受け継いだ王朝が晋であり、『三国志』の著者の陳寿が晋に仕えたことを考えれば、魏を重要視するのはうなづける。
しかしその結果、これからあとの中国は、どの時代をとっても、『史記』が描写する、前漢の武帝の時代と変わりがないことになった。中国には、時代ごとの変化がない。黄帝以来、すこしの変わりもなく、おなじ中国がつづいている。
そんなはずはない。いくら中国だって、時代ごとの発展があるはずだ、というのが、湖南・内藤虎次郎の考えだった。湖南は、京都帝国大学に、一九〇六年(明治三十九年)文科大学が開設されると、翌年(明治四十年)講師に迎えられて、東洋史第一講座を担当し、ついで二年後(明治四十二年)には、教授に昇任している。
湖南は、一九一四年(大正三年)『支那論』を発表して、中国の歴史を「上古」・「中世」・「近世」の三つの時代に分ける考えを出した。とくに、北宋の時代(十―十二世紀)から皇帝の権力が強くなるいっぽう、貴族階級が消滅して平民が台頭し、商業がそれまでになく盛んになったというところをとらえて、十世紀までが中国の中世であり、十世紀からあとが中国の近世である、と考えた。この内藤湖南の考えは、日本の東洋史学者に歓迎されたし、欧米のシナ学者にも影響を与えた。
しかしこれをもって、東洋史と西洋史が統一された、と喜ぶのは早計である。日本史と、東洋史と、西洋史は、今でも「歴史文化学科」のなかで、自分の領分を主張しあっていて、その矛盾が、近く解決される見込みはない。結局、日本には、あい矛盾する三つの歴史文化が存在するのである。