『歴史の読み方』はじめに

考古学は歴史ではない

 「魏志倭人伝」にでてくる、有名な邪馬台国の話を読むと、だれしも、いったい考古学者はどうしているんだ、と思いたくなる。
 なにしろ、今を去ること千八百年の昔、倭国にあった大国で、その女王は「親魏倭王」の称号を持つ卑弥呼だというのだ。どうしてその場所がわからないのか。
 それも、ただの倭王ではない。「倭人伝」によると、その国は、もと男子が王であったが、七十年か八十年して倭国は乱れ、あい攻伐すること歴年であった。そこで倭人たちはいっしょになって、一人の女子を立てて王とした。これが卑弥呼だった。卑弥呼は「鬼道」につかえて、よく衆をまどわした、つまりシャマンであったが、年はすでに長大なのに、夫壻がなかった。つまり結婚していなかった。弟があって、卑弥呼が国を治めるのを助けた。そういうわけで、卑弥呼が王になって以来、まみえた者はすくなく、召使いの女一千人を自身に仕えさせている。例外として、ただ男子一人があって、飲み物や食べ物を運び込み、卑弥呼のことばを伝えたりして出入りするだけである。卑弥呼の居るところの宮室・楼観・城柵には、常に人がいて武器を持って守護している、という。
 また「倭人伝」のいうところでは、卑弥呼が死んで、大いに塚を作った。径は百余歩で、いっしょに死んで葬られた者は、召使いの男女百余人であった。代わりに男王を立てたが、国中の者が服せず、またまた殺しあった。その時に殺された者は千余人であった。そこで卑弥呼の一族の娘の台与という者が、年が十三であったが、それを立てて王とすることになり、国中は遂に定まった、ともいう。
 その卑弥呼の居るところは、有名な邪馬台国だ。邪馬台国に行くには、まず「狗邪韓国」、すなわち慶尚南道の金海に行く。そこから海を渡って「対馬国」(対馬)、「一支国」(壱岐)、「末盧国」(松浦郡、すなわち唐津)、「伊都国」(怡土郡、すなわち糸島郡)、「奴国」(儺県、すなわち博多)、「不弥国」(宇美)、「投馬国」(不明)を経て、邪馬台国に到着する。これが女王の都するところである。七万余戸ばかり、という。
 これだけ詳しくわかっているのに、考古学者はなにをしているのか。
 それでも、一九四五年までは、皇国史観のせいで、「魏志倭人伝」のことは問題になっていなかったが、いざ戦後になって、日本史のタブーが取り除かれると、やれ卑弥呼はだれだ、やれ邪馬台国はどこだ、と、やかましく議論されるようになった。それは今でも続いていて、ちっとも解決が見えてこない。
 ここでは、邪馬台国の位置問題をとりあげよう。
 これには、二つの派がある。一つは畿内大和説であり、一つは北九州説である。
 日本で一番古い史書の『日本書紀』の編者は、もちろん畿内説であったと見えて、その「神功皇后紀」の三十九年(二三九年)、四十年(二四〇年)、四十三年(二四三年)の項に、なんにも断らないで「魏志」を引いているし、六十六年(二六六年)の項には「晋起居注」を引いて、「倭女王遣重訳貢献」としている。
 しかし「魏志倭人伝」の本文を見ると、実はこの間の二四七年には、卑弥呼は死んで、台与が立っている。だから二六六年の「倭女王」は、卑弥呼ではないことになるが、『日本書紀』はその矛盾をほっかぶりしている。
 そこで、この矛盾を突いて、北九州説が起こり、畿内大和説と鋭く対立した。ことに「魏志倭人伝」では、その道里記事が、実際の日本の地理と違う。読みようによっては、邪馬台国は畿内の大和のようにも読めるし、北九州のどこかのようにも読める。これに現代人のお国びいきが加わって、実は卑弥呼の墓はうちの山にあるんだ、いやそれは間違っている。実は邪馬台国はこっちにあるんだ、と主張する人々が跡を絶たない。まったく八幡の藪知らずといった観を呈している。
 ところがここに、日本の特殊事情がからんでいて、考古学者といえども、多かれ少なかれ、文字の史料に縛られているのだ。
 日本では、文字を刻んだ遺物が出ることは、まずない。あくまでも、土器や石器の出土だ。土器も、石器も、いやというほどふんだんに出るが、それに伴って、文字らしいもの、銘文らしいものが出ることは、めったにない。
 それに反して、『日本書紀』や『古事記』の確固たる伝承がある。あまりに確固としているので、ついついそれに頼りたくなる。『日本書紀』の紀年には批判的でも、その伝承には、いくらか態度に差があっても、多かれ少なかれ、利用せざるを得ない。
 一例を挙げれば、いわゆる「大和朝廷」がある。大和に朝廷があった、というのは、はっきり言って、ちっともわかりきったことではない。それでも「大和朝廷」という言い方に引かれて、例えば稲荷山古墳の鉄剣銘を見て、「大和朝廷」のワカタケル大王(雄略天皇)の勢力が、埼玉県に及んでいたんだ、やはり大和の力は大したもんだ、と感心することになる。
 ところが、「大和朝廷」というのが問題だ。実は、「大和朝廷」とは、六四五年から六五四年に在位した孝徳天皇が難波(大阪)に居り、六六八年から六七一年に在位した天智天皇が近江(大津)に居たのに対して、六七三年に即位して大和に都した天武天皇とその妻の持統天皇が、大和こそが本来の帝王の地だ、と主張するものなのだ。つまり七世紀末の思想である。
 天武天皇が六八一年に編纂を命じた『日本書紀』でも、古い天皇たちは、いずれも大和のどこかに都があったように記されているが、それはなんの証拠にもならない。古い都だって、河内(のちの摂津)の難波を中心として、いろいろなところに散らばっていたのだ。それが『日本書紀』で、大和に限られるようになるのは、あくまでも、大和こそが日本の中心だ、と主張する都合に過ぎない。
 いままで日本の考古学は、「大和朝廷」などという、『日本書紀』の主張に煩わされ過ぎた。もういい加減に、『日本書紀』を卒業するべきときだ。
 そういうわけで、『日本書紀』の歴史のイメージをさっぱりとぬぐい去って、あらためて考古学の成果だけを問題にする。それはなかなか大変だが、考古学者として、そうするのが正しい態度というものである。
 そこでさっき言った、日本では、文字を刻んだ遺物が、ほとんど出土することはない、ということが問題になる。それは天武天皇陵や、持統天皇陵でもそうだ。ましてそれ以前の陵墓は言うまでもない。
 結局、考古学は歴史の史料にはならない、と言わなければならない。
 考えてみたまえ。考古学は物を扱う学問だ。考古学が扱う土器や石器は、それに文字が刻んでない限り、だれの物やらわからない。かりに名前があったとしても、その名前を持つ人が、どういう言葉をしゃべっていたのか、どの社会のどういう集団に所属していたのか、その集団のなかで何をしていたのか、その集団がよその集団にどう見られていたのか、およそ見当がつかない。ただ土器や石器が、どのようにして発展してきたかがわかるだけである。
 例えば縄文時代が、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の六期に分かれる。といっても、その分け方は縄文土器の形式によるものである。その途中にどんな重大な事件が起こっても、それが外敵の侵入によるものであっても、土器の形式に変化がない限り、時代の分け方には反映しないわけだ。
 そこへ来ると、歴史は、文字で書かれた史料をもとにしている。文字史料は、土器・石器と違って、社会の有り様を記録する。これがつまり、歴史そのものである。
 そういうわけだから、考古学は歴史ではない。考古学は考古学で、独立した学問である。